I heard the news Japanese English skill ranking in the world has been down. It's down to the 87th in 2023 from the 80th a year ago. But the government "Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology Japan (MEXT)" has introduced English classes to elementary school since a decade and a few years ago. Although that, the young generation has less skill than others. I guess one of the reason is that the MEXT education policy lacks coherence.
最近読んだニュースに,母国語ではない英語力の国際比較で,日本が過去最低だったという話があった。113 ヶ国中 87 位。下位4分の1に入っちゃうレベル。どこが「先進国」やねん。ちょっと気になって前年(2022)を検索で調べたら 80 位だったから,7つもランクダウン。
筆者が読んだ記事は共同通信社配信のものだったが,どうやら元記事はこれらしい。
原題は「The world's largest ranking of countries and regions by English skills (2023 Edition)」だが,もしかすると URL が変化するかもしれないので,該当 URL の記事が異なると思われる場合は,上記「EF EPI 2023」で検索してほしい。
しかも記事によれば「若い世代ほど能力が低い」のだとか。いやいやいや,英語は小学校から必修になっていなかったか。いつからかと調べたら,東日本震災のあった 2011 年らしい。てことは,もう 10 年以上は小学校から英語をやっているわけで,その頃の小学生は,それこそ今ごろが二十歳台のはず。なのに,特にその世代のレベルが落ちているみたいな話なのは,どーゆーことよ。ちょっと考察してみたい。
● ある入試問題
My experience for example, a problem of an entrance exam was "select a word having same intonation from options", ahhhh... IDK! They was thinking persons answering it right could communicate in English well, and would became leaving many excellent results after entering the school?
などとエラそうなことを言っているが,じつは筆者は英語が超苦手。「そのワリに,最近の記事は一部英語じゃねーか」とツッコまれそうな気がするが,じつは筆者の記事には海外からのアクセスがわりとあると気付いたところに,最近は翻訳ロボットも利用できるから「英作文」も簡単。それなら,興味を持ってもらえるなら国内か海外かは関係ないと思い,一部を英語にしている次第。まぁ,詳しいことは後述しますわ。
一方で,数十年も前の筆者の受験の頃は「翻訳サイト」なんてなかった時代。英語が超苦手の筆者は,英語の入試のない学校を選んだほど。もちろん,全ての受験校で英語の入試を避けることはできず,他はほぼ英語必須。でも,そこも受けたし,そのための受験勉強もした。が……英語の入試問題で憶えているのは,たとえば何かひとつ英単語が挙げられていて,他に別の単語が選択肢としていくつか並んでいて……
イントネーションの位置が同じ単語を選べ。
だと。知るかー!
入試問題として出す学校側は,そうしたことを知っている人ほど優秀な人材に育つと考えているのか。この問題が解ける人ほど英語の読解力や会話力が,既にあるか,あるいは入学後に身に付き易いというのか。
それを実際に学校側に問い質したところで「そんなつもりはない」と言われて終わりにされるのがオチだろうが,受験者側は,過去問にこんなのがあると知れば,当然,合格の可能性を高めたければ,こんなことまで「勉強しておかなきゃ」という圧力になる。つまり,入試にこんな問題が出されること自体,日本の教育を変な方向に向かわせているような懸念を感じていた。
● 検索ワード「理不尽採点」
Recently, there are many articles about "unreasonable marking of exam" on web in Japan. E.g. the problem like this "there are 5 trays 3 apples putting on each. How many apples whole?" In some Japanese elementary schools, children answered "5✕3=15" cannot get point, because they are taught to write an expression "3✕5=15" for like these problems. But generally and internationally, expressions for calculating are written as ordering "quantity ✕ value-of-unit". Japanese teachers are teaching reversed one against international standard. Though English classes have been begun in elementary school from a decade or more ago.
そして最近,ネット上には,その懸念を増長させるような事例を多数見かけるようになった気がしている。「理不尽採点」で検索してみるといい。その文言で「画像検索」するとパッと見で分かり易いと思う。
ひとつ代表的な例を挙げると,算数の「かけ算」のこんな問題。
リンゴが5つの皿に3個ずつ乗っています。全部で何個ですか。
おそらく,その「理不尽採点」で検索すれば画像が見れると思うが,これに「5×3=15」という式を書くと×を食らう。式を「3×5」と書かないと「正解」として扱ってくれないのだ。
理数工系出身の筆者に言わせると,どっちだろうと導き出される値は同じなのだから,順番なんて別にいいだろう……という感覚しかない。こんなことで×をつけられた子が自信を失なって,算数嫌いにならないことを祈るばかりだ。
ウェブでこんな画像を多く見かけるようになった中で見つけたのが,冒頭の「英語力低下」の記事というわけ。英語がらみで「それを正解して将来役に立つのか?」と感じた入試問題を思い出し,何だか,その時の懸念が現実になりつつあるのではないかという気がしたのだ。
◆ 掛け算の「かけられる数」と「かける数」
おそらく,採点する側としては,「まずは『かけられる数』と『かける数』との違いをしっかりと認識してもらうため」とか何とか言いそうな気がする。
筆者のアタマの中ではどちらもほぼ同じ扱い。たとえば,缶コーヒーの 30 缶入りを一箱買った時,たいてい「5×6」に並んでいる。これは,どちらが「かける数」で,どちらが「かけられる数」なのか。
じつは「掛け算」や「割り算」というのは,計算前と後で単位が異なる。たとえば「速度」と「時間」を掛けると「距離」が出る。これは,「速度」というのが「単位時間あたりに移動する距離」……つまり距離を時間で割った値であるため。だから,単位としては「km/時」などと記載するだろう。その値は,同じ速度を1時間持続させると移動距離が何 km になるかを示している。つまり単位の計算は「(km÷時)×時」となるから,結果として km が求められるというわけだ。
では,缶コーヒーの場合はどう考えればいいのか。縦に5個,横に6個並んでいれば,「個×個=個個」……なるほど,個々の数が求められる……って,そうではない。「縦の並び」を「列」と考えると,ひとつの列に「5個」並んでいるから,単位は「個/列」なのである。それが「6列」あるから,単位の計算は「(個÷列)×列」となって,結果の単位は「個」となると考えられる。
かと言って,箱を 90°回転させると,列あたりの個数と列数が入れ替わる。5個,6個,どちらを「列」として扱おうと,結果は同じだ。
ただ,最近の缶コーヒーの箱は,「6缶パック」が5つ入っていることもある。単位の計算は「(個÷パック)×パック」となる。この場合は,縦だろうと横だろうと「6×5」の順番で書かないと×になるのだろうか。「かけられる数」と「かける数」の順番というのは,そんなに厳密に考えるべきことなのか。
◆ 厳密に考えるほど逆
ならば,厳密に考えてみよう。「かけられる数」とか「かける数」というのは,もう少し意味的に明確にするなら,「単位あたりの数」と,その「数量」ということになるだろう。6缶パックで言えば,1パックあたりの「6缶」が「単位あたりの数」であり,「5パック」が数量。だから,リンゴ皿の例と同じに考えると,「『6×5』と書けー!」ということになる。
「単位あたりの数」というのは,普段の生活で言えば「単価」が同様な扱いをする。さて,ではこの「数量」と「単価」,公式に扱われることもある見積書や請求書などでは,どの順番で書かれているだろうか。領収書となり得るレシートを見ればいい。ほとんどが「数量×単価」の順番……つまり,6缶パックを5パック買ったら,レシートには「5×〈6缶パックの単価〉」と記載される。学校で習うものとは逆だ。もう一度言う,「ほとんどが」そうだ。言い方を換えると,厳密に考えれば「学校では逆を教えている」ということになる。
するとおそらく,こんな反論が出て来そうだ。「小学校では,まずはどちらが『かける数』で,どちらが『かけられる数』か,区別をしっかさせるため」なんて話。しかし既に述べたように,どちらが先であろうと結果は同じ。ならば「数量×単価」で書かれるほうが多いのだから,最初からその順番で区別させる「べき」ではないのか? 「かける数」などといった意味的に中途半端な言葉も使わずに,最初から「数量」と「単位あたりの数」といった明確な意味の言葉を使って,順番も徹底したほうが,後々理解もし易いのではないだろうか。そうなっていないから,習ったことを大人になってから現実でひっくり返され,算数や数学に対して「私はダメだ」的に苦手になる日本人が多いのではないのか。
それでも引き下がれない人は,こう言うかもしれない。「会話として一般的なのは『かけられる数』が先で,『かける数』が後だろう」と。つまり「6缶パックが5つ」みたいな感じ。しかし,「5つの6缶パック」と言うことがないわけではなかろう。どちらが「一般的」と感じるかは人それぞれのはずだ。ただ日本人の会話では「6缶パックが5つ」と言う人が若干多いだけの話。言い方の「好み」の違いで試験の回答を不正解とされ,勉強する気が削がれてしまうなら,そのほうが問題だ。
「多数派に合わせるべきだ」というのなら,前述したように,見積書や請求書,レシートなどはほとんど「数量×単価」の順番なのだから,「書き方」で言えば学校とは逆が圧倒的多数派になるだろう。
◆ 国際的に見ても逆
だいたい,なぜ「数量×単価」の順番が多いのかといえば,欧米の文ではほとんどがその順番で記述されるからだ。たとえば「five trays」などと,数量が前に来る言い方になる。「日本語以外」ほとんどそうだと言ってもいいくらいだ。だから,公式の書類はみんなその順番なのだと考えられる。国をまたいだ取引なども,その順番の記述を標準として行なわれているのに,日本の書類だけ「単価×数量」で記載するわけにはいかないだろう。全て同じほうが誤解も生じず扱い易いはずだ。
意地でも日本の教育を正しいとゴリ押ししたい人は,「外国と日本は違うのだから,『日本としての教育』でいい」などと主張するかもしれない。はい! そこで冒頭の「英語教育」の話ですよ。なぜ小学校から英語を必修にしたのか。「国際的に通用する人材を育成……」とか何とか聞いたような気がするのだが? それでいて,算数の掛け算のテストで国際的な順番に×をつけ,異なる側を「正解」としていて「国際的に通用する人材」が育つのか? ちぐはぐ過ぎるだろうって話だ。
◆ 野坂昭如氏の都市伝説?
ちょっと話がそれるが,ついでに思い出したんで,書いておきたい。それは,作家の野坂昭如氏の娘さんが子供の頃にやらされた宿題の話。設問は,野坂氏の作品を読んで「これを書いた時の作者の心境を書きなさい」的なもので,それに「どう書けばいい?」と,父親であり作者でもある野坂氏本人に訊ねたところ,氏は「締切りに追われて……ワーッと書いた」と答えたのだとか。後の娘さんの話では「都市伝説的ネタ」と否定的らしいが,この話自体は野坂氏本人が別の著作物で触れているそうで,しかも,否定しているのは2人の娘さんのうちのおひと方だけらしく,「全部ウソ」とも言いきれないみたいな話。
ただ,この話の続きは,「氏の話をそのまま回答として書いて提出したらバツだった」というものらしいが,氏の著作ではそこまでは書かれていないのだとか。まぁ「作者の心境」にそのまま「……ワーッと書いた」と書いたところでマルをもらえるとも思えないが。
しかし,ではなぜマルをもらえないのか。「……ワーッと書いた」と「著者本人が」心境を述べているのだから,筆者としてはそれが紛れもない正解のように思う。が,なぜ「国語のテスト」は本当のことを書いても「バツ」になるのか。
たぶん,「国語が得意」だった方は「そういうことではない」と言いたいのではないかと思う。「作者の心境を書け」というのは,実際がどうであるかではなく,「読んだ人にどう感じさせようとしているのかを考えて書け」という意味だと,そんなことを言いそうな気がする。
だったら「問題文としてそう書けよ」と思う。「作者の心境を書きなさい」という問題文に対し,その「作者」が目の前にいて「……ワーッと書いた」と言っていれば,それが「本当の心境」なんだから,正直者がそれを聞けばそう回答するだろう。「読んだ人にどう感じさせようとしているのか」という意味の部分を「心境」なんて単純なひと言で済ませるから,その「心境」という言葉を辞書通りに解釈し,「どう感じさせたいと考えられるのか」の回答に置き換えられない子とか,野坂氏の娘さんの例のように,正直に「本当の心境」を書いたためバツにされるような事態が生まれるのではないのか。
だから前述の算数でも,問題文に「『単位あたりの数×数量』の順番で式を作って解きなさい」と記載があれば,その順番以外を「不正解」にするのは分かる。問題文をそこまで詳しく書かずに,「回答が教えた順番と違う」ことを理由にバツにするのは,一方的過ぎるだろって。
国語の話に戻ると,そもそもどんな心境の時にどのような文章を書くかなんて人それぞれのはずだ。たまたま野坂氏が「ワーッとなっている時」にあの手の文章を書く人だっただけの話だ。
「人それぞれ」であることを考慮すれば,正確な回答を引き出したければ,宿題の問題文はこうすべきではなかったか。
作者は読んだ多くの人にどう感じさせようとしていると『出題者は』考えたのかを(想像して)書きなさい。
こんな問題文なら,出題者をよく知っている人の正解率は格段に上がるはずだ。つまり,国語の問題文の国語が正確ではないということだ。ただ,逆に出題者を知らない人は「あんたがどう感じたかなんて知らんがな」ということになるだろうが。
こうした国語の問題の性質,筆者もいーかげん大人になってからそれに気づいた。子供の頃からモノの仕組みやその動作について調べることが好きで,読む本も工学系が多かった。「どういう仕組みだとどう動くのか」を正確に説明している本ばかり読んでいた。そんな筆者が,そもそも試験の問題文自体に正確さを欠いている「国語」をいくら勉強したところで,試験の点数など上がるハズなかったのだ。今だから分かる,それがいわゆる「LD(Learning Disability)」の一面なのだろうと。
とはいえ,出題者がどう考えるのかを想像して点数を稼げることに,メリットなど何も感じないが。
むしろ「相手がどう考えているか」に重点を置いた教育なんかしていると,「成績がいいヤツ」というのは,つまり「忖度」するヤツだらけになってしまいそうな気がする。そんなヤツばかりが「国語の試験」で高得点をとって「いい大学」に合格し,卒業後は「出世コース」が約束されて,やがて組織の管理職レベルが「忖度」する連中で埋め尽くされちゃったりすると,「癒着,隠蔽,贈収賄」のオンパレードになって,やがて「モラルハザード」につながっていくのではないか。たとえば,芸能事務所の社長に性加害があっても,所属する多数の人気アイドルを使わせてもらっているのだから見て見ぬふりしろとか,スポーツ祭典に関わる大手広告代理店に不正が疑われても仕事を得るためにスルーしろとか,「忖度」だらけの管理職連中から部下に向けて出される指示がそんなものばかりの社会になってしまいそうな気がする……もうなってるか。文部科学省さん,読んでますか? 「手遅れ」です。
● 見事な「一貫性のなさ」
Japanese education policy has no coherence, therefore many "unreasonable marking for exam" articles uploaded on web in Japan. Those are evidences that MEXT is leading Japan to bad, I think.
これが筆者の目に映る今の日本における教育の実態。「国際的人材を育成!」するフリをして小学校から英語教育を始めておきながら,算数で教える掛け算の順番が国際的なものとは逆だったり……端的に言うなら「一貫性がない」ということ。しかもその「一貫性のなさ」を,子供たちは「テストの採点」というかたちで否応なく押し付けられている。それが原因と考えれば,「理不尽採点」なんてものがネットのあちらこちらで取り沙汰されるのも,ある意味当然な話だ。
冒頭の「英語のレベルが落ちている原因」も,もう何となく分かるだろう。入試で合格するために「イントネーションが同じ単語」を必死で勉強していた人が,英語で円滑にコミュニケーションできるようになるのか。算数のテストで「いい点」を取れていた子が,アタマの中が国際標準とは逆の「単価×数量」のまま外国人と商談するようになった時,国際的な取引を問題なくまとめられるのか。
「入試」や「算数」の担当者は,こう言うかもしれない……「別に,英語や算数の国際レベルを上げるためにやっているワケじゃない」と。だが,やらされるほうは,その「入試」や「算数」の試験で「いい点」を採らないと,志望校に落ちたり,先生や保護者からにらまれたり叱られたりする。それを避けようと思えば,そのための勉強に時間をかけざるを得ない。そのぶん,試験で「いい点」につながりそうにない知識に触れる機会は確実に減るわけだ。たとえば,最近の英語ではどんな「スラング」が使われているのかとか,国際的には「掛け算」はどのような順番で書かれるか……これらの知識は,知っていれば英語でのコミュニケーションを円滑にしたり,間違いのない国際的取引をするために重要だと思われるが,それに沿って答案を書くと減点されたり叱られたりするから,「知ろうとする」動機までも減らすことになるのではないか。言い換えれば,入試や算数の担当者が「国際レベルを上げるためではない」とか言ってそれまでのやり方を続ける限り,英語をはじめ,国際的な活動に役立ちそうなことを知る機会も奪われ続けるように思うのだ。
何より,「理不尽採点」があるために,子供の勉強する気や向上心を削いでいる可能性がある点が,非常に問題と感じている。まぁ「算数」と「英語」は違うのかもしれない。しかし,入試や学校で教わる内容と「社会的常識」とにズレがあることが,限定的な問題と言いきれるだろうか。事実,冒頭で述べたように,英語が小学校から必修とされて十年ちょっと経った今,国際的なランクは落ちているのだ。しかも「若い人ほど」……つまり,必修となった世代ほどだ。原因にそうした「ズレ」がないと言いきれるのか。英語を必修とした時に文部科学省が考えていたであろう「国際的人材」とは,何だったのか。
● 日本と海外の情報収集意欲の差
When I post to introduce the article about care and welfare to some "mailinglists" in Japan, soon after, many accesses come to it from overseas, but a few from Japan. I think that is defference of consciousness for collecting such informations between Japan and others. That is the reason why I write articles in English partially. Also it is the source of that Japanese care and welfare businesses have not been well, I think.
最初のほうで述べたように,「英語が超苦手」と言いつつも,最近の筆者サイトの記事には一部に英語を含ませている。というのも,じつはわりと海外からのアクセスが多いと気付いたため。
しかも,「検索エンジン」からと思われるアクセスがかなりの割合。「検索エンジン」と言えば,Google や Yahoo! をはじめとして,何か調べ物をする人が,関連する単語や文章などが含まれる記事を探すのに利用するサイトだ。その手のアクセスは,公開されている多数の記事を一瞬にして一度に読むようなものが多い。当然,人間ならそんな読み方はできない。それはその「検索エンジン」から,「このサイトの記事にはどんなことが書かれているか」をチェックするコンピュータが読みに来ていると考えられる。だから一瞬にして多数の記事を読めるわけだ。それで「含まれる単語」が調べられて,誰かがその単語で検索した時,「検索結果」に該当の記事が表示されれば,それを「入り口」として,当サイトにある他の記事にも興味を持ってもらえる可能性もある。実際「一瞬にして多数の記事を読む」アクセスだけでなく,1記事だけ読むものや,最初のアクセスの数分後に別の関連記事を読む,といった「人が読んでいる」と思われるものも,海外からあるのだ。
で,海外からのアクセスが多いのなら,多少は英語でも記事の内容が分かるようにしておこうと思い,部分的に英語にしているというわけ。すると,英語の単語で検索した時も検索結果として提示される可能性が高まるだろうというのがひとつ。また,最近は自動翻訳ロボットも手軽に利用できて「言葉の壁」も低くなっているから,日本語部分も読んでもらえる可能性の期待がもうひとつ。実際,最近筆者がチャットでよく会話する相手が書いて来るのは「ロシア文字」だったりする。リアルで同じ部屋に居合わせただけでは「通訳」でも居ない限り絶対会話などできないような相手でも,ネットで「翻訳ロボット」を利用すればできてしまうからおもしろい。だから,日本語が分からない人でも記事の一部が英語なら,そこを読んで興味を持ってもらえば,日本語の部分も翻訳サイトなどを利用して読んでくれることが期待できるわけだ。裏を返せば,「翻訳ロボット」というものがなかったら英語が超苦手なのに英文なんて入れねーよって話。英語ネイティブの知り合いなどいないから,掲載した英文が正しいかどうかチェックしてくれる人もいないし。その点でも「翻訳ロボット」サイトにはお世話になっています。
でも不思議に思うのは,そもそも筆者サイトは介護福祉関連の情報を「日本向けに」提供したくて始めたもの。もちろん,記事もほとんどが日本語。なのに,海外からのアクセスが多いってのはどーゆーことよ?
実際,新しい記事を公開して福祉系メーリングリストに紹介すると,投稿直後に海外からのアクセスが大量にある。おそらくはそれも自動的に内容を読むロボットだろうが,それだけ海外の検索エンジンが「情報収集」を重視している姿勢を示すものだと思う。一方で,国内からのアクセスはというと,紹介した内容が介護福祉関連であっても,福祉関連施設などからのアクセスは数回あるかないか。自動的に介護福祉情報を収集するようなロボットなんか日本に存在しないのだろうと思われる。これでは,そうした情報にアクセスし易くする手段がないままにならないか? 結果的に,介護福祉関係者は苦労を強いられ続ける気がする。
本来,その改善を模索するのが「研究機関」ではないかとも思うが,メーリングリストに来る研究機関系からの投稿の内容というと,「リスキリング」とか「スカラー」などの文言がズラリと並ぶ。筆者はどちらも意味がよくわからない。「スカラー」で思い当たるのは,筆者は簡単なウェブツールを作って自分用サーバに置いて利用することがあって,それで使う Perl と呼ばれるコンピュータ言語で,数値や文字列などの「1つの値」として扱えるものを「スカラー」と呼ぶのだが……もちろん,全く関係ないだろうけど。いずれにしても,その「スカラー」とやらが介護福祉の問題を解決してくれそうな気はしない。もし「介護福祉改善」を掲げて,その「スカラー」とやらに税金や公金が費やされているのだとすれば……そのぶん「実質的改善」にお金が行き届かなくなる可能性があるわけで,永遠に改善しない気がするのだが。
何だか日本人は「福祉の改善」には関心が薄いのではないかという気がしてしまう。筆者サイトへの海外からのアクセスと,日本国内からの反応の差を見るにつけ,そんな感じがする今日この頃。いや,今日この頃に限った話ではなく,過去に登録していた福祉系メーリングリストでも,書き込んでいたのが筆者ただ一人だったことがある。介護福祉関連で「こうした試みをした」とか,「こんなことで困っている方はいませんか?」などと投稿していたが,他に登録している人たちからは誰一人として何の反応もなかった。いろいろと「技術を持つ者」として「やってあげられることはないか」との思いで登録したのだが,何も反応がないから,何をしてあげればいいのか全く分からないまま,やがて業者がサービスを打ち切り,何も得るものなく終わったのだった。
これで,日本の介護福祉は「人手不足」とか「人材不足」とか言っている。そりゃ,いつまで経っても,改善するワケないわなと思う。