何か伝えたいことがある時は話せばいいし,話せなくても書ければ何とかなる。これらは誰もが普通にしていること。でももし,そのどちらもできない状況におかれたら,どのように自分の思いを周りに伝えればいいだろうか。痛い,痒い,空腹,排泄,不満,不足……今,自分が抱える問題を訴えたい時に,言葉が使えない状況を想像できるだろうか。
うまく発声できず,文字も書けない……自分ひとりでは言葉で意思を伝えられない方が,そのハンディキャップをどう受け止め,乗り越えて生きてきたのかを,本人の言葉で語られる機会など,通常得られない。だいたい,聞きたくても本人が喋れないのだし,おまけに手や足が自由に動かせず「筆談もできない」ともなれば,普通なら「特別なんたらかんたら」的な施設に「隔離」されてしまい,「聞く」どころか「会う」機会さえ滅多にない人にされてしまう。
じつはこの本の著者,中野さんは,まさにそうした方。「本を出版する」のなら,話すか書くか,本来そのどちらかで意思を言葉にできてこその話。でも中野さんは,どちらも困難。容易に言葉を扱えない人が,自身の言葉で綴る……この本の持つ重要な意味は,そうした「通常は聞くことのできない」人の言葉が綴られているという点。
ここでは同書の書評と共に,著者の中野さんとの関わりと,障害者をとりまく現状,技術的な背景などについて考察したい。
● 著者「中野智子」氏
◆ 「勉強したいの?」のひと言が分岐点
この度上梓された「とも III」の著者である「中野智子」氏は,現在私がパソコンの指導をしている方。重度の脳性麻痺で,発する言葉は聞き取りづらく,手でも足でも字は書けない。本来なら,普通の人がしている「言葉による意思伝達」は,ことごとく不可能ということになる。
その不可能を可能にしたのは「現代技術」。中野さんは,単に言葉を「単独で発信する」ことが困難なだけで,何か「使える道具」があればきちんと感情や意思を伝えることができる。その一つが「パソコン」。現在のパソコン使用法は,ヘッドギアをかぶり,その前部中央から伸びた棒でキーボードを打っている。ワープロやメールのソフトを使えば,喋れなくても,字が書けなくても,言葉による意思伝達が可能になる。
つまりこれは,単独では言葉を発信できない人でも,何か「使える道具」があれば,言葉で感情や意思を伝えられることを意味する。
ただ,その「使える道具」というのがわりとむずかしい。中野さんは今でこそパソコンでそれを実現しているが,もしもパソコンを扱える方が周囲に居なかったら……パソコンを使う機会は与えられず,現在ほど自分の意思を他人に伝えられないままだったかもしれない。
とりあえずは,「文字盤」といった意思伝達手段も考えられてはいるものの,その「当人が使える文字盤」がどこかから手に入れられるか,あるいは作れる人が居て,加えてその文字を読み取れる人も居ないと,「言葉による意志伝達はムリね」と諦められてしまうかもしれない。
しかもその「文字盤」による意思表示は,「常に」適切とは言い切れない面がある。というのは,「実際に本人の意思なのか」が,必ずしも明確ではない状況も起こりうるため。もう少し詳しい話を後述するが,この点で,意思表示の手段が「文字盤」ではなく,コンピュータという「機械」によるものであることが重要となる場合もある。
ただ文字盤であれパソコンであれ,意思伝達を実現するに至るまでがそう単純ではない。まず当人が「意思を明確に伝えられる人」であり,「周囲がそれに気付いて」,意思伝達のための「いくつかの手段を試す機会」があって,その中から「適切な手段が見つかること」が必要……と,乗り越えるべきハードルは少なくない。ひょっとすると,今もどこかに「お試し」でもパソコンに触れる機会に恵まれず,自由な意思表示が実現しないままになってしまっている方が居るかもしれない。
本にも記載があるが,中野さんが「意思表示のできる人」だと周囲に気付かせたのは,親戚が話しかけた「勉強したいの?」という言葉だったそう。この発言をした人と居合わせていなかったら,もしかすると今の中野さんも,この本もなかったかもしれない。親戚の言葉をきっかけに,様々な人を巻き込み,「意思伝達」への長い挑戦が始まる。
◆ 書かれなかったから「こそ」重要な点
明示的に「書かれていないこと」が重要……なんて言うと,推理小説か入試問題のようだが,この本にはひとつそうした点がある。本には,どの施設に入り,どこに誰と旅行に行って何があったなど,様々な経験が書かれているが,もし「学校」に当たる施設に居たことがあるなら,同級生にどんな人が居て一緒に何をしたなどという話もあってよさそうなのに,そのような話は出てこない。つまり,今でこそ「特別支援学校(旧養護学校)」という施設が全国にあり,どのような障害を持っていてもどこかで受け入れられる体制となっているが,中野さんの幼少期,重度障害者は「教育の対象外」として扱われていたのではないかと窺わせる。それは,巻末にある,言語療法師「木村幸子」氏の話を読むと納得できる。むしろそちらから先に読むと,著者の中野さんがこれだけの「本を書いた」ことの意義深さがよくわかるかもしれない。
そうした経緯から考えても,コンピュータやその他の道具を使い文章を綴るに至るまで,本人も,周囲の方々も,相当の努力を要したであろうと想像させる。と同時に,ここまで自分の言葉で語れる人を,安易に「教育の対象外」としてしまう「昔の」教育制度の理不尽さにも驚く。もちろん,当時「コンピュータ」なんて活かせる時代ではなかったのは分かるが……とはいえ,今「活かされているか」と言っても眉唾だが。
奇しくも十数年前,当時の都知事が障害者の入所施設で「この人達に人格はあるのかな」などと宣ったのが,マサに著者である中野さんの居る施設だったとか。当時は知事へのバッシングも相当あったようだが,当然だろう。「喋れない,動けない」というだけで,人格の存在を疑うような判断こそ人格を疑われる。ただ裏を返せば,障害者を安易に教育対象から外してしまうような,その元知事が生きてきた時代背景が,そうした発言を生んだとも考えられる。しかし,「とも III」の本に書かれた,著者のこれまでの経験がしっかりと綴られた文章を読めば,人格があるかないかはハッキリする。
つまりこの本の存在がいかに「特異」であるかと言えば,まだ「障害者の意思伝達」など重要視されなかった時代に生まれた著者が,しっかりとした意思を持ち,それを「手段さえあれば伝えられる」と周囲の人が気付いて,支援できる人と出会い,それを伝えるための様々な手段を考案し,実際に製作し,そして実践できる環境があって,本人もそれに挑戦し続ける……といった,簡単ではないいくつものハードルを飛び越えて出来上がった本であるから。
じつは現在,中野さんの知り合いの方にもパソコン指導をしていて,数ヶ月前まで「東京都八王子市」というところまで時々出向いていた。そこには,観光地「高尾山」があり,そしてその山の向こう側に,昨年(2016)多数の障害者が刺殺された,あの「やまゆり園」がある。
犯人は,「障害者なんて役に立たないから死んでいい」的な思いから犯行に及んだと言われているが,何となく元知事の「人格あるのかな」発言に通じるものを感じるのは私だけだろうか。
残念ながら,「現に何の役にも立ってないだろう」と思う方も少なからず居るかもしれない。しかし,この「とも III」という本の存在は,その考えを改める必要性を呈している。なぜなら,「喋れない,字も書けない」となれば,本来なら「言葉での意思伝達は不可能」という扱いをされてもおかしくない方が,その言葉を綴って本を書いているのだから。つまり,障害があるために「何もできない」のではなく,「(その障害に対応した何かが)できる状況が与えられない」ために,「その人のできることが分からないだけ」なのかもしれないということ。だから「喋れない,動けない」からと言って,「役に立たない」というレッテルを貼り付けるとか,ましてや人格を疑うなど,あまりに拙速で短絡的な判断。「とも III」を読み,障害者に様々な意思伝達や表現手段を試せる状況が与えられること,またその実現のためには周囲の方の工夫と支援が重要であることを,実感して欲しいと思う。
「とも III」取扱い書店や通販による購入は,以下のサイトをご参照ください。ご興味の湧いた方はぜひご一読のほど。
● 「技術者」の視点から見た介護福祉の現場
ここからは「とも III」出版に至るまでの背景的な面や,著者である中野さんのような障害者をとりまく社会環境を,技術者としての視点で記述してみたい。書籍の内容面からは少し離れ,また長くなるため,そうした点に興味の無い方は,以降はあまり必死に読まなくても大丈夫。
◆ コンピュータは能力拡張技術
コンピュータは,今でこそそこら辺のパソコンショップや家電店でも買えるが,著者の若い頃,コンピュータというものがなかった時代に,どのように意思伝達をしたのか……については,「とも III」に記載があるので,ここでは省略する。
とはいえ,この本が出版された時期は,私が中野さんに本格的にパソコン指導を始めてからまだ1年も経っておらず,指導を開始時点で既に本の内容のかなりの部分ができていたため,中野さんが「私の指導」で書いた文章はほとんどないと言える。ただ,私の前にもパソコン指導の担当者が居たため,影響があるとすればそちらの方かもしれない。
私が深く関わった部分があるとすれば,文章ではなく主に絵の描画のほう。コンピュータによるお絵描きというと,マウスを動かしてブラシ(筆)や絵の具の描画を画面上に再現する「ペイント」と呼ばれる方法が知られているが,指導を始めて間もなく,それと異なる「ドロー」と呼ばれるコンピュータ特有の描画方法をお伝えした。
「コンピュータ特有の方法」なんて,一般の人でもなかなか取っ付きにくいことも多いのに,中野さんは,半年間にその方法で4つほど絵を描いて,出版間近の本に載せる……というウルトラCを見せてくれた。本書の表紙や公式サイトに掲載されている絵のいくつかがそれである。
見方を変えれば,「ドロー」という描画法がある意味「障害者向け」だと言えるのではないかと思う。この方法は,主にデザインでパソコンを使う人によく知られているが,じつは私は,以前から障害者にも有用ではないかと考えていた。中野さんがそれを見事に証明してくれたかたちとなった。
「ドロー」描画法については,後ほどもう少し詳しく述べたい。
◆ 「本人の意思」と明確に分かる重要性
「『パソコン』なんて使わなくても『文字盤』でいいじゃないか」と思われる方も居るかもしれない。しかし,決定的な違いがある。それは「補助者が要るか要らないか」,言い換えると「意思の発信が本人だけでできるか」という点。
かつて「某」公共放送局で,文字盤で詩を書くという「天才障害児」が取り上げられたことがあったそうだが,どちらかというと疑惑の声が大きい。「異議あり! 『奇跡の詩人』」という本まで出ているほど。何が批判されているかというと,「本当に障害児本人の意思で綴られた詩なのか」が疑われる部分が多数あるのだという。
マサにその疑念の矛先が「文字盤」。母親が持つ文字盤の字をその子が指し示して詩を綴るらしいのだが,見る人によっては「母親が文字盤を動かして指に押し付けているように見える」らしいのだ。
件の本によれば,放送した局側が客観的検証を拒否しているとのことなので真相は調べようがないが,この「いざこざ」の元を辿れば,本人以外(この場合「母親」)がいくらでも介入できる状況下で文章が作られているという点に行き着く。つまり,文字盤による「意志伝達」は,「当人の意志」を第三者が確認できるかどうかに限界がある,ということ。詳細は前出の「異議あり!……」の本をご参照いただきたい。
一方,「とも III」著者の中野さんの場合,ヘッドギアについた棒でキーボードを押して文章を綴る間,ほとんど誰の補助も必要としない。私も「パソコン指導する」と言っても,週に2日ほど,不具合の調整やソフトの設定,操作方法を伝えるくらいで,他の日はもちろん,指導の日も綴られる文章の内容にはほとんど関知していない。おかげで,作りたての文章は仮名だらけなうえに誤字脱字盛りだくさん。もちろん本ではそれらは修正されているが,内容は本人しか知り得ないことも多く,ほぼ本人の意思で綴られたものと言える。
本人の意思だと明確に分かる表現手段があることは大変重要であり,それを実現するコンピュータの役割もまた重要であると言えると思う。
ちなみに,前述の放送局はその後「佐村河内事件」を起こしている。
ちなみ2,さらにその後,障害者をテーマに感動を売るテレビ番組を「感動ポルノ」と称して批判する内容を放送している。
◆ コンピュータ特有の描画法「ドロー」
コンピュータによる描画法で一般に知られているのは「ペイント」と呼ばれるものだと思う。紙に絵の具で色を着けていくのとほぼ同じ感覚の方法で,パソコンはたいていその描画によるソフトが最初から使えるようになっているので,誰でも始められるものではある。
ただ,一般的なパソコンでの位置決め機器である「マウス」が自由に使える人ならそれだけでもある程度様々な表現が可能だが,「マウス」が使えない障害者が「ペイント」方式で絵を描くには,制約が大きい。
まず「マウス」が使えない場合,特に中野さんのように,一本の棒や指で操作する方むけに代替手段としてパソコンに用意されているのは,「テン・キー」によるマウス操作。「テン・キー」とは,キーボードの右端にある数字キーのことで,「5」のキーを中心に,左に移動するなら「4」のキーを押し,下なら「2」,左下なら「1」と,上下左右と斜め 45 度方向にマウスを移動する方式。
「ペイント」方式の場合,通常は「マウス」のクリックやドラッグによって色を着けていくため,たいてい「マウスの動きの通り」に色が着く。そのためマウスの動きが直線的なら,色の着き方も直線的になる。つまり「テン・キー」による操作では,「上下左右に斜め 45 度を含めた八方向の直線以外は描けない」ことになる。描画において線を描くことは重要な要素なのに,八方向以外の線は描けない……これが,マウスを使えない人が絵を描く時の最大の制約。「障害者がパソコンで描いた絵」と言われているものは,よく見るとそうした八方向の直線要素が多いのは,これが理由と思われる。ちょうど「とも III」の p41 にある運動会の「綱引き」の絵のような感じ。
方法がないわけではない。どうしても直線以外の線を描きたいなら,「描きたい線の形になるように色の点を並べて置いていく」ような感じで実現することもできる。ただ,一度で済めばいいが,一旦塗った箇所を別の色に修正したいとなると,わりと手間がかかる。一般的なカンバスへの絵の具による描画だと,一旦ホワイトなどで塗りつぶして,別の色で塗り直すことになるが,パソコンでの「ペイント」描画もそれに近く,同じ部分の描画作業を色を変えてやり直すような感じになる。絵筆を直接持って描けるならまだしも,「テン・キー」を操作して納得いくまでそれを繰り返すことを考えると,かなりの手間になることはご想像いただけると思う。数回前くらいなら「元に(着色前の状態に)戻す」という機能も働くが,戻せる回数には限界がある。
述べたように,中野さんはヘッドギアから伸びた一本の棒でパソコンを操作するので,やはりマウスの操作は「テン・キー」になる。つまりマウスを移動できるのは,上下左右と斜め 45 度の直線方向だけ。ところが,この本や中野さんの公式サイトに掲載された似顔絵などを見ると分かるが,中野さんの絵には,必ずしもそのような決まった方向の直線ばかりではなく,八方向以外の線やなめらかな曲線も多い。これはつまり,マウスを動かす方向に捉われない線も描けるということ。じつはそれが「ドロー」という描画方式の最大の特徴。
▼ 描画法「ペイント」と「ドロー」の違い |
では,どのようにして,上下左右と斜め 45 度だけの直線的なマウスの操作だけで,なめらかな曲線を描いているのか。
「ドロー」という描画の方式は,簡単に言うと,色紙(いろがみ)を好きな形に切り抜き,重ねて置いていく感じ。しかもその「色紙」は,色や形,大きさ,重ね順をあとから変更できる。いわば,「いくらでも好きな色に染めて,形も変えられる粘土膜」のようなもの。この「あとから変更できる」ことが,障害を持つ人にとって,何よりも強力な支援要素となる。
▼ 「ドロー」描画法の構造 |
じつは「ドロー」の方式でも,フリーハンド描画で線を引くと,結局はマウスの動きに沿った線……つまり,マウスが直線的な動きならば,ほぼ直線になってしまう。ただ,前述のとおり「あとから色や形を変更できる」ので,一度描いた線や図形に対して,「ここはなめらかに曲げたい」とか,「線の傾きを 45 度ではない角度に変えたい」,あるいは「もっと濃い色で塗りつぶそう」などと調整して,思い通りの形,線,色に「ちょっとずつ」近付けていくことができる。つまり,一度描いた部分を修正するのに,「同じ描画作業をやり直す手間がない」。これが「ペイント」との決定的な違い。
だから「ドロー」という描画方式は,誤操作や試行錯誤が多い描き手にとっては抜群に都合がいい。そのため「障害者向け」とご紹介しているのだが,別に障害者向けに考えられた描画方式というわけではない。絵があまり得意ではない人も,「ちょっとずつ」自分の理想の画像に近付けていく感覚を実感しながら絵描ける方式と言える。
中野さんがどのように描いたかというと,まず「下絵」の写真を選んで画面に置き,その上から,色の境界線に沿って線を描いていく。とは言っても,述べている通り,棒一本でキーを押して操作するため,最初に引かれる線は上下左右と斜め 45 度の直線が多く,写真の境界線とはズレた箇所だらけ。それを,後から位置を調節したり,曲がり方を変えたりして境界に合わせていき,最後に色を着ける(中を塗りつぶす)。
本書に掲載されている絵のいくつかは,この「ドロー」という描画法を伝えられて1年も経たないうちに描いた4~5作品である。
◆ お試し「ドロー」に最適な OpenOffice Drawing
じつはこの描画法,別に特殊なソフトは必要ない。マイクロソフトのワードやエクセルにある「オートシェイプ」という図形描画機能がほぼそれに相当する。が! 個人的にオートシェイプはお勧めできない。
というのは,前述の「テン・キー」でマウスを操作している方など,マウスによる自由な位置指定がむずかしい障害者にとっては,「超」が付くほど使いづらいため。まず,一度描いた線の位置や曲がり方を調整するための点の表示がとても小さくて,位置指定がかなり困難。麻痺や不随意運動のある人が,キー操作で何度も小さな点にマウスを乗せることは,遠視の人が針の穴に糸を通す作業を繰り返しやらされるようなもので,もう「苦痛」と言っていいレベル。しかも,主な操作はマウスの左ボタンなのに「右クリックしないと使えない機能」も多く,「テン・キー」操作では左右クリックの「切り替え」がかなりの手間となり,誤操作の原因にもなる。加えて,拡大表示も「5倍」が最大で,細かい部分を拡大して見ながら調整するにも限界がある。
じつは中野さんの場合も,最初は「ワード」のオートシェイプ機能を利用していたが,やはり前述のような理由であまりにも使いづらかったため,使うアプリを「OpenOffice Drawing」というものに変更した。
「OpenOffice」というのは無料のオフィススイート(ワープロや表計算アプリのセット)で,Drawing はその中のアプリの1つ。描画方式はオートシェイプとほぼ同じだが,前述の「困難」はほとんど解消した。まず線の形を調整するための点は,見た目の面積比で4倍以上はあり,位置を指定し易い。また「右クリック」で表示されるメニューは,キーボードの「アプリケーション・キー(スペースキーの4~5つほど右側にあるメニューを表示させるキー)」を押した時に表示されるものとほぼ同じなので,右クリックをしたい時は,代わりにそのアプリケーション・キーを押せばいい。「右クリックをしないとできない処理」がほぼなくなり,テン・キー操作で,左右クリックボタン切り替え手間が不要になった。しかも,最大 30 倍まで拡大表示ができるので,細かい部分の微妙な調整も拡大して見ながらすることができる。
当初は「ワード」のオートシェイプを使っていた中野さんの場合も,OpenOffice に変えた途端に操作が格段に速くなり,それが1年も経たないうちにいくつも絵を描けた一因ではないかと思う。オートシェイプ使用時は,左右のクリック切り替え手間削減のため外部に「右クリック専用ボタン」を用意しようかという話もあったが,OpenOffice に変更後は不要となったため,結局は出費ゼロで解決してしまった。
障害のある方……に限らないかもしれないが,何か新しいものを導入しようとする時,果たしてそれを使いこなして思い通りのことができるか……この場合は「絵が描けるようになるか」どうか心配で,特に何か「出費」を必要とする場合,「ためらい」の原因となることもあるかもしれない。しかしそれでは,何の進展もない。その点 OpenOffice は,無料でダウンロードとインストールができるので,できるかどうか分からなくても,絵に自信のない方でも,「お試し」で使ってみるのにちょうどいいのではないかと思う。
● QOL(人生の質)向上を阻むもの
◆ 「使う気」になる?
述べてきたこの「ドロー」という描画方式は,今のような「ウィンドウとマウス」による操作のコンピュータが登場した頃から既に考えられていた。オフィス系のアプリには,初期の頃から「オートシェイプ」に当たる機能はあるので,それなりに長く存在している。
述べているように,この方式では,最初に描く線がどんなにズレていようと,あとでその形や色を簡単に変更や修正することができるので,「障害者向け」とお伝えしている理由もご理解いただけると思う。もちろん,別に障害者向けの方法ではないので,一般の方にも便利な描画法のはず。
ただ残念ながら,この「ドロー」という描画法が,障害者の自己表現手段として広く活用されているという話は,あまり聞かない。なぜこれほど障害者にとって有用と思われるものが活用されていないのか。
単純に考えれば「教えることができる人」が居ないからではないか。それにしても,今やパソコンはどこにでもあるし,気軽に使える方法でもあるというのに,なぜ教えられる人が居ないのか……それは,あまりにも「新しいやり方」に消極的過ぎる方が多いためではないかという気がする。
たとえば,ここまで読んで「私も『ドロー』を使ってみよう」と思った方がどれほどいるだろうか。もし「そんな時間も技量もない」などと考えて,一切自分では試そうとしない方ばかりだとしたら……この「新しい表現方法」を障害者に伝えられる方など増えるわけがない。
しかし,本当に時間や技量の問題だろうか。重度の障害を持つ方が,始めて1年も経たないうちに,その方式でいくつも絵を描き,本に載せているということが「事実」としてある。習得するのに時間がかかるとしたら,そんなに描けるはずはないし,だいたい重度の脳性麻痺の人に「技量」など求められるものではない。
「ドロー」描画法は,それほど時間も技量もあまり必要なく,手軽に試せる方法。試してみないうちに時間や技量不足を挙げて「自分はやらない理由」にしていて,障害者の QOL 向上が図れるだろうか。
とはいえ,必要性が薄いと,なかなか積極的に「試してみよう」という気は起きづらいかもしれない。介護福祉の現場に必要なのは,どちらかといえば「報告」や「告知」など文章が主体で,イラストはそれほどでもないかもしれない。
ただ,福祉関係の施設に出入りしていると,施設の告知や,配布された掲示物などに混じり,スタッフが利用者と共に作ったと思われる手書きの貼り紙やイラストなどの作品を見かけることがある。もしかして,それらを個別に手作りしているのかなと思うと,「介護現場では人員も時間も不足しがち」という話を疑いたくなることがある。というのも,じつは「ドロー」という描画方式では,描いた部品ごとにコピペすることができる。ひとつだけ描いてコピペで増やせば,一度にいくつも印刷できる。たとえば中野さんが描いた顔の絵も,片目を描いたらそれをコピペし,左右を反転させて大きさと形を調整し,もう片方の目としたりした。これが,1年足らずでいくつも絵を描けた秘密の一端。
似顔絵のようにちょっとずつ違う絵も,まずは輪郭や髪の毛といった顔のパーツをおおまかに描画したものをひとつだけ描いて,それをコピペで増やしておき,あとは形をそれぞれ調整して違う顔に仕上げれば,ひとつひとつ「ゼロから描く」より手間も時間も少なくて済むはず。
あるいは,いくつかコピペした顔のパーツをバラバラに置いてそれらをシールに印刷して切り抜き,あとから並びを調整しながら貼り付けて「福笑い」のように顔を作ることだってできる。
大元の画像を保存しておけば,描くべき顔が変わった時でも再利用ができる。しかも「ドロー」の描画は,拡大縮小が自由自在だから,一度作っておけば,大きさを変更して印刷することで,様々な用途に転用できる。前述の顔のパーツをバラして大きく印刷すれば,それこそ実際の「福笑い」にも使える。用途はいろいろ広がり,その都度ゼロから作る必要もない。
こうした使い方を知っている者が介護現場で手描きのイラストなどを見ると,「本当に人員や時間は不足しているのかな」と感じてしまう。
「でも印刷では味気ない」と思われるなら,それはきっと「手作りの味わい」を重視して人手と時間をかけられる余裕のある介護現場なのだろう。それはそれで優秀だと思う。
ただ,一般的な現場は逆の状況であるような話をよく聞く。慢性的に時間と人手が不足している現場で,貴重な人手と時間を「手作りの味わい」を出すために費やしている場合ではないのではないかと思う。時間や人手が貴重であればあるほど,少しでも使える手段は利用して,手間を減らす工夫を取り入れて当然のような気がする。
残念ながら,述べてきたような使い方を知らない人ばかりでは,そうした工夫もできないし,何の改善も進まないことになる。「『ドロー』なんて方法を知らなかったのだから,使っていなくても仕方がない」と思った方は,知った今後はドローを使うだろうか。
◆ 「人材」にならない要因
中野さんのように,絵筆やペンは持てなくても,棒を付けたヘッドギアなどの道具を工夫することで「パソコンなら操作できる」という方は他にもいるはず。それはドローのような「描画」に限った話ではない。パソコンを使ってできることは多種多様。「パソコンで××できる」と知った時,自分から積極的に「やってみよう」と試してみる方が居なければ,「使える人」など増えないし,当然「教えることができる人」も増えない。障害者を指導できる人が増えないから,結果的に,そうした様々な手法で自己表現できる機会を,障害者から奪っているような気もする。逆に言えば,「障害者の QOL の向上を!」と叫ばれて久しいものの,障害者の自己表現の手段としてパソコンなどがなかなか活かされず,一向に改善傾向が見られないのは,現場の方々があまりにパソコン利用に消極的なことが一因ではないかと思うことがある。
加えて,介護の現場で時間や人手が不足しがちな状況が改善されないことの遠因でもあるような気がしている。
だったら,パソコンを利用する機会が増えればマシになるのか……もし「人材」として活用できる障害者を増やせるとしたらどうだろうか。
たとえば,前述の「施設に貼り出すイラスト」などは,「ドロー」の描画ができる障害者に任せれば,スタッフがわざわざ貴重な介護時間の一部を割いて手作りする必要はなくなり,一方で任された障害者は「役割」を持たされることになり,QOL 向上にもなるように思う。
じつは前例がある。中野さんではなく,また「ドロー」でもないが,別の施設でパソコンを指導していた方で,よくワープロで手紙を書く方がいた。手紙にイラストや自分の近況の写真を載せたいとの要望が出るので,私がその方法を指導して手紙を書き,印刷したものをスタッフに渡し,封入と投函をお願いしたりしていた。
そしてある時,施設のイベントのポスター作りを頼まれたのだった。イベントへの「お誘い」の言葉を考え,タイトルやイラストなどと共にレイアウトした。「告知」のために必要なポスターであったのなら,それをスタッフが作る負担が軽減されたことになるし,頼まれた障害者も「役割を担う」という,介護現場で格好の Win-Win が実現したのではないかと思う。
障害のある方本人も,また周囲の方も,「パソコンに触れる機会」がなければ,もし現場に「人材として活かせる」ほどの才能を持つ人がいたとしても,見出されることはなく,何も頼めない。結局全てスタッフが手間ヒマかけている……そうなってしまってはいないだろうか。
◆ リーダーの無理解
一方,現場がどんなにやる気になっても,簡単には変えられないこともある。それは,その現場のリーダー格の人に「理解がない」場合。
じつは中野さんの場合も,いまでこそ毎日のように家族や知り合いとメールをしているが,そこに至るまではそう単純ではなかったそう。
「メール」は,中野さんのように,意思伝達手段が「主に文字のみ」という障害者にとって,外部とやりとりするための最高の道具であることは言うまでもないと思う。
だから「携帯電話」というものが普及し,ほぼ全ての人に行き渡り,メールという手段が誰でも使えるようになってからは,障害者もその利便性の恩恵を十分に受けてもいいはず。だが,現実はそうもいかない。まず医療施設内では携帯電話の使用が制限されることが多かった。電波が医療機器に影響を及ぼす誤動作が懸念されたためと思われる。
とはいえ,時が経つに連れ,誤動作の可能性はそれほど高くないことが分かってきて,一方で医療機器側の電波に対する対策も進み,むしろ医療や福祉の現場で通信機器が使えない不便さのほうが際立ってくる。それでも,そうした現実を直視して,柔軟に「考え」を変えられるリーダー格の人は,残念ながらそう多くない。中野さんの場合も,メールをやりとりするための機器はほぼ整っていながら,入所する施設でそれらを使って通信する許可はなかなか出なかったそうだ。
「自分でメールしたい!」と希望を持ち続けること数年,それが実現したのは,施設のリーダー格の人が異動により替わった時だったとか。そして「いつでもメールできる」状況がやっと実現した直後,お母様が旅立たれたのだそうだ。「安心して旅立って逝ってしまうほど,メールの許可を受けるのにたいへんな思いをしたのか?」と勘ぐってしまう。
まぁ,それは特殊な事情として,じつは介護の現場にとっては重大な問題を孕んでいる。
中野さんは,今でこそ無線端末によるネット接続が許可されているので,自分のパソコンから好きな時にメールできるが,それ以前,つまり個人のパソコンでネットの接続が許可されていなかった頃から,じつはメール自体は利用していた。どのように送受信を実現していたのか。
今でこそインターネットは「いつでもつながる定額制」が当然だが,以前は(携帯)電話回線で接続する「ダイヤルアップ」と呼ばれる方式が主流の頃があった。それは通話と同様,従時間制の課金だったため,人がメールを読み書きしている間,ネットを「つなぎっぱなし」では料金が膨大になってしまう。それを防ぐため,一度のネット接続で,届いたメールのデータをまとめてパソコンにダウンロードし,人が内容を読み書きする間は切断しておく。送信したいメールも書き溜めておき,これまた一度のネット接続で一機に送信していた。このようにメールデータの「送受信の時だけ」ネットとつなぐようにして,従時間制の通信料を抑えていた。これはつまり,人がメールを読み書きする時は「必ずしもネットにつながっている必要はない」ということ。中野さんがメールを読み書きするパソコンをネットにつなぐ許可が出なかった頃は,ネットにつながる別のパソコンを経由して送受信していたのだ。
この方法,原理を言うのは簡単だが,けっこう手間がかかる。まず,中野さんのパソコンのメールソフトで書いたメールを,フロッピーなどに保存する。それをネットにつなげられるパソコンまで持って行って,そのパソコンのメールソフトで読み込んで,「送信待ち」状態にする。この時にたいていは宛先アドレスの入力や確認などが必要となる。そのパソコンを「ダイヤルアップ」でネットにつないで,一機に送信と受信をする。受信したメールをまたそのパソコンのメールソフトからフロッピーに保存する。それを持ち帰り中野さんのパソコンのメールソフトで読み込む。場合によってはここでも「誰から来たものか」の確認や整理の作業が要る。そして,やっと中野さんが読める状態になる。
技術屋としては,今だったら,「マクロ」,あるいは「スクリプト」と呼ばれる,一種のプログラムを書いてある程度自動化してしまっているかもしれないが,当時の環境で,しかも現場のスタッフにそんな技術を求めることなど無理。メールは送信も受信も1件ずつとは限らない。結局,1回につき数十分から,件数によっては1時間前後の時間を要していた可能性もある。それを週に何回かしていたとすると,いったい年間どれほどの時間がその「メール・リレー」に費やされていたのだろうかと思う。
じつは「とも III」の本にも,こうしてメールをやりとりしたことが書いてあるが,かなり「サラリ」と触れられているだけ。本人のパソコンで行なっていたのはメールの読み書きの部分のみで,ネットにつながるパソコンも離れた場所にあったため,周囲の方々がメールの送受信のためにどんな作業をしていたのかまでは見えていないと思う。
もし,中野さんのパソコンで携帯端末を使える許可が早めに出ていれば,このような手間は要らなかったように思う。それは,無線端末が医療機器に及ぼす影響が小さいと分かった時点で,可能だったのではないか。介護現場は人手も時間も足りていないと聞くが,無線端末の使用を許可しなかった施設のリーダーがどう理解していたのか疑問に思う。
このような話をすると,「そんなの知らなかった」とか,「そんなに手間ならメールなんてやらせない」といった方向に考えてしまう方もいるかもしれない。もしその施設で,「利用者の利便性を高める」とか,「QOL 向上を目指す」などが目標として掲げられて「いない」のなら,それでもいいだろう。でもそれでは,障害者の「意思疎通」の可能性を否定し,阻害するようなものではないだろうか。もし多少なりとも前述のような目標を掲げているのなら,それなりに利用者の利便性と現場の環境向上を目指し,日々現場をみつめ,そのためにできる対策を研究,模索してこそ「リーダー」ではないのかと思うが,どうだろうか。
もしリーダーに当たる人が,出された要望に関わる情報をよく調べ,「医療機器には大きな影響はない」と早い段階で知り,無線端末の使用を許可していれば,述べたような「メール・リレー」などせずに済んだはず。「孕んでいる」と言った別の問題とは,そうやって「人手も時間も不足している」と言われる介護の現場で,リーダー格の人が状況把握を怠り,担当者の貴重な時間をさらに圧迫してしまっている可能性だ。
なぜもっと早く許可されなかったのか……早めに許可されていれば,メールのリレーに介護関係者が貴重な時間を割く必要がないだけではなく,お母様も溜めたストレスを「決壊」させるようなこともなかったのではないか……そんな思いもする。
● 諸問題解消の「鍵」となるコンピュータ
これまでにお伝えしてきたことは,コンピュータ利用が現場に広まらないため,「ドロー描画」のような障害者の表現手段としても使えそうな利用法を知る人が増えず,結果的に「人材」として活かせる機会を逃している可能性。そして,リーダー格の人が現場の諸問題を十分把握せず,対する研究も対策も進まないため,そうした方々の QOL が向上しないことなどだが,共通点がある。まず述べているように,人手も時間も足りないと言われている介護現場で,さらに手間的,時間的な負担を増加させている可能性がある点。そしてもう1つ,そうした問題の解消に「それまでと『やり方』を若干変える必要がある」という点。しかもここで述べた話では,どちらもコンピュータが深く関わっている。
コンピュータを避ける傾向の強い人の言い分は,一つは「今までそんなもの使っていなかったのだから……」といったようなもの。しかし,そう主張する方は,ここ十数年間ほどで急速に普及した「携帯電話」や「スマホ」は持っていないのだろうか。むしろ,もう手離せない器具となっているのではないだろうか。少なくとも,コンピュータを内蔵した医療機器はもうすでに介護現場で使われているものもあるはず。これは「今まで使っていなかった」からと言って,「今後も使わなくて済む」理由にはならないということ。
あるいは「コンピュータは分かる人に任せればいい」と言って,自分が詳しく知る必要はないと考える方もいるかもしれない。おそらく,これまでもそうした方が多かったから,コンピュータの活用が進まないのだと思うが,述べてきたような現状を直視して欲しい。「ドロー描画」の話のように,コンピュータの使い方を伝えられる人が現場に居なければ,告知のポスターやイラストを任せられる人もできず,全てはスタッフがこなさなければならないわけだし,医療機器に及ぼす通信の影響にある程度安全性が確認されていても,許可の権限を持つ方がそれを調べず「危険だ!」という考えのままでいたため,「メール中継」のような作業負担が一部の「分かる人」に集中するなど,とにかく手間が減ることはない。
もし現場に「ドロー描画」を知っている人がいたら,あるいは,通信の安全性をキチンと調べて許可していれば……前述のような「負担」は増やさず済んだのではないだろうか。現場の方々が皆少しずつでも「分かっている」状況を作ることが,全体として負担を軽減するのではないかという気がする。
今後更に少子高齢化が進み,介護の担い手不足がますます深刻になりそうな状況下では,省力化や効率化は不可避なはず。現場でいつまでも「コンピュータなんか使わない/知る必要はない」と言っていられるのだろうか。
◆ 「民生委員」と「ネットワークカメラ」
最近,「民生委員が不足している」という記事を読んだ。民生委員とは非常勤の公務員で,住民の生活上の相談を聞くなどして行政サービスとの橋渡しをする役割があるそう。他にも,一人暮らしの高齢者のお宅を訪ねたりして,孤独死を防ぐ目的もあるらしい。
ところが,「ボランティアという位置付けのため必要経費以外は支給されない」のだとか。つい「奴隷かよ」と思ってしまった。「孤独死を防ぐ」ような,人の生死に関わる重要な役割を担った人が「無報酬」。その一方,五輪のエンブレムや新国立競技場のデザインなど,結果的に何の役にも立たなかったことに何十億費やしたのだろう。実際に重要な役割を担っている人にこそ相応の報酬があるべきだと思うのだが,少なくとも現政権(2016 安倍晋三内閣)に改善する気はなさそうだ。なぜならば,「孤独死を防ぐため」に老人宅を走り回らせる人は無報酬で,五輪組織委員会会長として送り込んだ「トップヘビー」な人には,何十億もの浪費の責任もとらせず居座らせているのだから。思考力のある人がこれを見れば「まともに働くと損」という印象を持っても不思議ではない。少なくともオヤクショがこうした状況を放置しているのだから,そりゃ民生委員の「なり手」など居なくなって当然だろう。
そうした状態が常態化しているオヤクショで,最近(2016-12-20),「働き方改革実現会議」が開かれ,示されたのが「同一労働同一賃金」の実現案だとか。それを私企業に押し付ける前に,まず隗より始めたらどうかと思うのは私だけだろうか。
「ニート」が問題視されて久しいが,その対策のひとつとして,何十億円も棒に振るような人にはきっちり責任をとらせて世間に示すこともわりと重要ではないだろうかと思う。
それはともかく,ガラッと話が替わるが,「ネットワークカメラ」という製品がある。遠隔操作できるビデオカメラで,一時期「おもちゃ」レベルの1万円しない製品もあったと思う。最近の通販では,安価なものでは1万円台前半くらいのようだ。
そのカメラで撮影した画像は,ネットワークにつながるコンピュータなら,どこででも見ることができる。たいていは外部からそのカメラを操作し撮影が可能。たとえば「おもちゃ」として売られていたものは,それを部屋に設置して,留守中のペットのようすを見たり,何か機器の消し忘れや地震で倒れたものがないかといった防災用,あるいは侵入者を感知するための防犯用としての需要を当て込んでいるようだった。
もし,一人暮らしの老人宅にネットワークカメラを設置したら……と考えれば,なぜ突然「ネットワークカメラ」の話をしたのか,何となくおわかりいただけると思う。孤独死防止のためそれらのお宅をいちいち訪問する必要性は減り,従って不足している民生委員を有効活用できるのではないかと思うのだ。
おそらく提言するまでもなく,その「ネットワークカメラ」は,既にセキュリティ会社などで遠隔監視などに利用されていると思うが,多分「お高い」。それは,もちろん 24 時間監視をするための人件費,万が一の時の保険料が代金に盛り込まれるというのもあるだろうが,カメラに信頼度の高い設計が必要となるためもあるだろう。カメラに不具合が起きた時,「ペットのようすが見れなかった」といったおもちゃ程度の用途で「大きな損失」とは考えにくいが,「セキュリティ会社」ともなると,いざという時「機能していない!」が度々起こるようでは,信用が落ち,損失につながる。そのレベルの設備を「孤独死を防ぐため」に独身老人の各家に設置するとなると,かなりのコストになることは容易に想像できる。小さな自治体ではむずかしいだろう。
ただ逆に言えば,セキュリティ会社レベルに信頼度の高い機器で監視する必要まではないケースもあるのではないか。たとえば「病弱」とまでは言えない,ある程度自由に動ける方々のお宅ならば,ネットワークカメラを設置しておき,日々の見守りでカメラの不具合に気づいた時だけそこに直接点検に伺えば済むことも多いのではないか。
コスト的には,安めのカメラ本体が1万円台前半として,あとネットワークの契約が,安価な ADSL(有線=電話線)で月々2千円,Wi-Max
と呼ばれる無線接続だと月々4千円,その低データ量接続なら月々千円以下のものもある。「孤独死を防ぐ」のに高い投資と思えるだろうか。使えないエンブレムと競技場の設計に消えた数十億で,何世帯にカメラが設置でき,何ヶ月の見守りができ,何人の孤独死を防げただろうか。
何もそれを「全部ヤクショで監視しろ」という話ではない。民生委員に見てもらえば,わざわざあちらこちら直接出向かずに済むから,数時間かかる訪問も,手元のパソコン1つで数分間で済む。負担も軽くなって,「なり手がいない」と言われている数少ない民生委員も,効率的に活かせるのではないか。あるいは手間が減ってコストが削減できたら,少しでも「報酬」を与えるべきではないだろうか。
なぜそれができないのか。それはその民生委員や担当の役人に,コンピュータを扱える方がいないからではないか。「扱えない」ではなく,「私には分かりません」と言って「扱おうとしない」というほうが近いかもしれない。
「でも直接訪問して会話もしたいし……」という意見も出てきそうだが,それは「人手不足解消」と比べてどちらを優先すべきかという問題だろう。コンピュータ利用に消極的であることが,結果的に現場の負担軽減を阻んでいる可能性があることは,「ドロー描画」や「通信端末使用不許可」の話で述べて来た通り。だいたい「全てそれで監視すべき」という話ではない。少し前に述べたように,「『病弱』とまでは言えない,ある程度自由に動ける方々のお宅なら」ば,「転倒」などの事故が起きていないかカメラで見守る程度で済ませれば,数少ない民生委員の負担も軽くなり,効率よく活かせるのではないか,という話。そもそも自分で動ける方なら,会話くらい自分から出かけて近所の人とできることもあるだろう。
他にも,かつて受け入れ病院が見つからず,救急車で運搬中の患者がたらい回しにされたニュースを聞く度に,このネットワークカメラのことを思い出していた。大きな病院の集中治療室や手術室の「使用中」のランプにカメラを向けておき,それを救急車の連絡所で確認できたら,「たらい回し」は減り,助けられる命も増えるのではないかと。
問題があるとすれば,「ネットワークカメラ」を遠隔的に操作可能にするのに,いくらかの設定が要ること。場合によってはコンピュータ・ネットワークの知識が必要となり,やはりそこは少々ハードルが高い。
ただ,こうしたことは,最初の設定をしてしまえば,通常の使用時は単純操作のことも多い。たとえば,新しいプリンタを使う時は,設置して最初に「インストール」という作業が要る。でも通常それは新製品の使い始めの一度だけ。その後はする必要はなく,実際の「印刷」操作はそれまでとほぼ同じ。私もこれまで,プリンタのインストールのため,障害者やその施設,ご家族に何回も呼ばれたが,設定と使い方の説明をひと通りすると,プリンタ関係で次に呼ばれるのは,何か不具合があった時か,また新しいプリンタの「インストール」が必要な時くらい。
パソコンの周辺機器というのは概してそんな感じで,つまり「ネットワークカメラ」も,最初に一度だけ「分かる人」を呼んで設置と操作方法の説明さえしてもらえば,あとはパソコンでアプリを起動して見ればいいだけの話で,べつに「分かる人」でなくても扱える可能性が高い。技術的には明日からだって実現可能ではないだろうか。
なぜそれができないのか。ここでもやはり「鍵」となるのは,「積極的に試す方」が居るか居ないか。もし「コンピュータで遠隔的にビデオ監視できる製品がある」と知って,積極的に「では試してみよう!」と思う方がいれば,そうしたカメラの設置方法などが「分かる人」も少しは増える。すると「試しにカメラ置いてみようか」なんて試みも気軽にできるようになり,孤独死も少しは減らせるのではないか。逆に,試しもしない,試す許可も出さない消極的な方ばかりでは,孤独死も人手不足も「改善はいつの日か」……ということになるのではないだろうか。関係者が揃って「パソコンは苦手で……」などと言っているうち,また孤独死する人が出るのかと思うと,述べたような製品やコンピュータの導入,設置,設定などの技術的な支援をしている者として歯がゆい。
◆ 人手不足と「ニート」
「ニート」と呼ばれている方々の中には,パソコンを日夜いじっている方が一定割合いて,述べたようなドロー描画とか,無線端末やネットワークカメラの設定くらい簡単にできる人もいそうな気がする。だとしても,労働現場でコンピュータの利用が進まなければ,そうした技能に「需要」は生まれず,活かせる場も増えない。ニートはニートのままである。これは別に介護や福祉に限らず,あらゆる仕事の現場で言えるのではないだろうか。もしかすると「ニート」という存在の問題も,様々な現場でコンピュータ利用を避け続けていることに一因があるのではないかと思ってしまう。
こんな経験がある。私の短かかったサラリーマン時代,取引先に 20
ページほどの書類を送る必要が生じた。今なら PDF にしてメールで済ませてしまうところだが,まだ「インターネット」という言葉が話題にもならなかった頃で,FAX で送るのが普通だった。それほどのページ数だと送信に数十分ほど要する。その間,何もできないのでは時間がもったいないので,事務で FAX 機の説明書を借り,「メモリ送信」という項目を探した。それは,送信前に原稿を全て先に読み込み,あとで自動ダイヤルして送信する方法。結果,読み込みは数分で完了。あとは FAX
に任せ仕事場に戻ると,先輩のオジサン方は「もう終わったの?!」と目を丸くして驚いていた。先輩方,いったい何年その職場にいて,その
FAX を使っていたのか。
そんな感じで,働き始めて数ヶ月後,こなした仕事の成果と給与とのギャップに疑問を抱き,社長に直談判したことがあった。あちらの主張は「タイムカード上はこの金額になる」というもの。でも前述したとおり,仕事の仕方が違う。他の人が 20 分かかっていた FAX 送信を5分で済ませ,余った時間に他の人の仕事を手伝うなどしていた。それでも他の人より全体の労働時間は短かかったらしい。その時はこなした仕事の成果を説明し,労働時間に関わらず,一般的な新人の給与相当額をもらえることにしてもらったが,話が終わって去り際に社長が言った「君だけが速くても『ダメ』なんだ」という言葉が印象に残っている。
しばらくして会社にアゴで使われ始め,しかも「使い走り」のような内容ばかり。自分のすべき仕事ではないと感じ,辞めた。残ったのは,「メモリ送信」を知らず,FAX に原稿が少しずつ読み込まれて送信されるのをじっくり待つオジサン方。
もう 20 年以上前の話だが,おそらく今もまだこの傾向は続いているのではないだろうか。そして,私が居た会社に限らない話だとも思う。これまでのやり方より,どんなに効率的で安上がりな方法があろうと,それを調べも試しもせず,古いやり方に固執している人たちが,自分でしないだけではなく,そうした方法を「積極的に利用しようとする者」の受け容れも拒む。「効率のいいやり方」が会社にとってプラスになると思ってやっても,それを拒まれては「居づらさ」につながり,結果的に排除されていくことになる。残った「効率のいいやり方」を受け容れられない方々が「上司」や「管理者」になり,非効率な「古いやり方」が固定化される。こんな状況で,昨今問題視されている人手不足とか,サービス残業とか,過労死とか……改善するとはとうてい思えない。長年,日本の産業効率は先進国中最低と言われているが,当然だろう。
◆ 弱者を切り捨てるオヤクショの思考構造
それでも介護福祉の業界では,人手不足は何とかしなければならず,周囲の医療機器にはどんどんコンピュータが内蔵され,「IT 化」の波も避けられないのではないだろうか。そんな時,オヤクショが考えることは何かといえば……「丸投げ」だ。前述したセキュリティ会社による遠隔監視のように,どこかに「全ておまかせ」できる状況を求める。
しかし,述べたように,そうした会社はそれを「業務」としてお金を受け取る以上,相応の「責任」が伴う。監視カメラには「おもちゃ」のレベルを超える信頼性の設計が求められ,24 時間監視のための人件費や,万が一の時の保険も考えなければならない。それらのコストなどがごっそり上乗せされた料金が提示される。それを「他に方法が無い!」と言って採用すれば,結果的に末端の利用者や納税者の負担を増やすことになる。一方で,他の工夫が考えられずに「丸投げ」したヤクニンの皆さんの実質的負担はほとんど増えない。官民格差を悪化させる一因ではないだろうかと思う。
ひょっとすると,それがやがて「利権」と化してはいないだろうか。末端の利用者や納税者からお金が流れてくる仕組みをヤクショが作ってくれるのだから,業者にとってこんなにおいしい話はない。もしそこに「癒着」があれば,双方ともラクであろうことは,容易に想像できる。業務請負いを取り付けるため,業者は躍起になることだろう。
「丸投げ」で思い出すのは,2009 年の3月に起きた,群馬県の老人施設「たまゆら」の火災。死亡した 10 名のうち 6 名は,東京都墨田区の紹介で入所していたという。「業者は相応の責任が伴う」と述べたが,一度自動的に入所者(お金)が入ってくる仕組みに組み込まれてしまうと,防災体制の整備などの責任は,どーでもよくなってしまうのだろうか。
しかもこの事件,施設側の責任は裁判沙汰となっているが,紹介した側のオヤクショである墨田区の責任の話は,ほとんど聞かない。
そしてこの2年後に東日本の震災があり,福島第一原発事故が起きている。
こうした事件が起こる度,「想定していなかった」的な言葉が聞こえてくる。「だから仕方がないでしょ」という考えなのだろうが,果たしてそうだろうか。
述べているように,「業者」が何らかの対価を得て業務を請け負うからには,相応の「責任」があるはず。支払われる料金に見合う「責任」を負えないような業者が存在してはいけない。逆に言えば,ヤクショが何らかの事業を業者に委託(丸投げ)するからには,そうした「無責任な業者を選ばない」ようにする責任があるはず。なぜなら,その業者にも,選定したヤクニンにも,税金から報酬が支払われるのだから。「無責任な業者」を選ぶことは,税金の無駄使いに他ならない。ヤクショが業務を委託(丸投げ)するなら,使われる税金が無駄にならないよう,委託(丸投げ)先に相応の責任能力があると「十分に想定できていなければならない」はず。つまり「想定していなかった(できなかった)」ことが間違いなのだ。
本来なら「たまゆら」のような防災意識のない業者など信用されず,いずれ誰からも利用されなくなり,従ってお金も入らなくなり淘汰されるはず。なぜ,そうした「対価相応の責任能力のない」ような「存在すべきではない業者」が存続しているのか。じつは半分答は出ている。存在し続けることができるのは「どこからかお金が流れてくる仕組み」に組み込まれているから,と考えれば,その「仕組み」とは……言うまでもないと思う。
一方,福島第一原発の事故では,東京電力元会長らが,検察による2度の不起訴処分ののちに強制起訴された。検察が「不起訴処分」にしたのは「事故を『想定し得た』とする証拠が揃えられない」という判断だと思われるが,強制起訴を決めた「検察審査会」側の言い分としては,証拠云々以前に「管理職なら想定しろよ」ということなのだと思えば,自然な話。「様々な状況を想定して最悪の事故を防ぐ体制を整える能力あってこその『管理職』だろ」という考えがあったのだと思う。
ヤクニンもしかりではないだろうか。「想定していなかった」ということは,想定するだけの「能力が無かった」ということ。そうした言い訳が簡単に口を吐くような人がヤクニンをしていること自体が間違い。
ほかにも,「いじめ」についての子供からの訴えが出ると,該当自治体の教育委員会あたりが「いじめとは認識できなかった」と判で押したような回答をしたり,ストーカー被害の未然段階で警察に相談していた人が結果的に実被害に遭ってしまうことが繰り返されるのも,教育委や警察などのヤクニン,特にその指導的立場の人に「最悪の事態を『想定して』事前に対策をとる能力」がないため。既に同様な事件で死傷者が出ていようと「危機意識」すら持たず,被害が繰り返されているのが実態。その「最悪の事態」を防げないような「想像力のない人」が指導的立場に居座り,結果的にその「最悪の事態」が起きてしまい損害を被る人が何人出ようと,「指導的立場」としての報酬だけはごっそり持って行ける「仕組み」ができ上がってしまっているのが,今の社会。
そのお金はどこから出ているのか……「税金」だ。学校や介護施設では利用者自身も一部負担しているかもしれないが,そうした危機意識のないヤクニンの報酬は,全国民から徴収された税金が充てられている。弱者ばかり割を食う社会構造がヤクショによって構築され,ヤクショの「中の人」であるヤクニンの責任はうやむやなまま報酬だけは持っていける状態が,こうした社会構造を温存させ続けてはいないだろうか。
そういえば一時期「ギリシャ危機」が話題になったが,あの国は「4割がヤクニン」などという話を聞いたことがある。いざ国内に目を向ければ,小学校建設用地のゴミ処理費が妥当かどうかの関係書類は破棄したとか,魚市場の移転を最終的に決めたのは私じゃないとか……などとヤクニンや政治家が言っている間に,様々な費用が飛んでいく状況を見るにつけ,「このままだと明日は我が身なのかな」なんて気もする。
● 消極的を超え閉鎖的とさえ感じる福祉の現場
障害者をはじめとする介護福祉の現場に,QOL 向上やら人手不足などが叫ばれて久しいものの,述べてきたのは,リーダー格の人も管轄のヤクショも,現場の状況を正しく把握していないことが多く,適切な判断ができずに,むしろ改善を阻んでいる可能性を示す例。これはつまり,誰かに「任せきり」では,QOL 向上も人手不足解消も,とても望めるものではないということだと思う。それどころか,「たまゆら火災」のように,「最悪の事態」にも巻き込まれかねない。
障害者や子供,老人などの弱者,末端でその介護を担当する方々に残された道は,現場で工夫を考えて,実践していくことしかないのではないかと思う。しかし,これも述べてきたように,現場も「新しい手法」の導入には,どちらかというと消極的。パソコンの新しい使い方を知って手間の削減を図るとか,ネットワークカメラを試しに置いてみるなどということを実践する現場もまた,ほとんどないと思う。それは時として「閉鎖的」とすら感じることもある。
◆ 技術分野に「連携」を求められない不思議
以前,中途障害で,手が少ししか動かせなくなってしまったという方のご家族から,「もう長い間訓練しているのに何も進展がなくて……」というご相談を受けたことがあった。話すことができなくなってしまったので,せめて意志伝達のためにパソコンで文章作成できるようにしようと訓練を続けているが,うまくいかない……という話。
拝見したところ,どうも文字入力に利用していたパソコン・ソフトの仕様がうまくない。「スキャン式」と呼ばれる文字入力で,パソコンに表示された文字盤上をマークが動き,それが入力したい文字のところに来た時に押しボタンを押すもの。その方の場合,ボタンを押すために待ち構えていると,緊張のせいか手がどんどんボタンに近づいて,押すべきではない時も「押したまま状態」になってしまう。いざ押すべきタイミングでも,今度はボタンの上で手が跳ねて,「ダブルクリック」のようになってしまっていた。しかもそのソフトがダブルクリックを「キャンセル」として扱うものだったため,結果的にボタンを押す度にキャンセル扱いにされ,文字が選べない。そんなことをもう1年前後も続けているという。そこで,「何とかならないか?」とご家族から相談を受けたのだった。
必要な信号以外を除去する仕組みを,技術的に「フィルタ」と呼ぶことがある。このケースでは,押したままにする必要のない時の「押したまま信号」や,「素早いボタン押し信号(ダブルクリック)の2度め以降」を,「不随意運動」によって発生する「不要な信号」と考えて,それを除去する「フィルタ」を作ればいいことになる。幸いにして,このケースに対応できるフィルタは簡単に設計できた。それが,以下で紹介している「BoMT(ぼむと)」という装置。
このような「不随意運動のためにうまくスイッチ操作ができない」というケースは他にもあるように思う。この「ぼむと」の記事を公開して数年経ち,これまでに「やはりスイッチがうまく使えないケースがあるので試したい」といった相談がどれほどあったかというと……じつはゼロ。研究用に欲しいという話があった程度で,特定の使用者を対象にした相談は,前述の方が最初で最後である。
何とも不思議に思うのは,このパソコンによる文字入力の訓練を担当していた方は,長い間「文字入力がうまくできない」という同じ原因で進展の無い状況をどう考えていたのかということ。そして,前述のような機器の導入で入力ができるようになった現実を前に,同様な方法で進展が望めるケースが他にもないかと考えなかったのかということ。多少なりともそう考えることがあれば,どこかから「××さんが使っている『ぼむと』という装置を試してみたい」といった問い合わせくらいあってもいいような気がするが,ゼロなのであるから。
一般の方が技術者に直接「こんなことできない?」と相談できる機会などほとんどない。だからこそ「手を差し伸べたい」と考えて今のような仕事をしているのだが,とはいえ一般の方では何をどう相談していいのか分からないことも多いと思う。そこで,技術者との橋渡し的な役割を担ってもよさそうなのが,O.T(作業療法師)のような訓練の専門家ではないかという気もする。たとえば訓練の中で,「こんな機能の装置か器具があればいいなぁ」と思っても,実現する技術がなければ「いいなぁ」だけで終わってしまう。でも「技術を持つ人」に相談できれば,「ぼむと」の例のように,少なくとも「いいなぁ」で終わらせずに,その少し先まで行けることもあるはず。しかし,述べたように,その方面からの問い合わせは皆無なのが実状。
これまでにそうした方々と最も接近したのは,O.T の皆さんが登録する「メーリングリスト」と呼ばれるネット上のコミュニティに参加したこと。紹介してきたような技術者視点の提案を,数十人ほどの O.T の方々に同時に届けられるという状況下にあった。でも,それも結果は同じ。様々な提案を書き込んでいるのは私だけで,「詳しく知りたい」といった反応どころか,「こんなことで困っている」といった相談の書き込みも一切なかった。これでは,提案した内容が役に立つものだったかどうか,他にどんな問題があるのかも分からず,進展のしようがない。やがて,数年後にサービス運営業者の都合で強制的に打ち切られたカタチとなった。
単純に見れば,「訓練担当者は誰も技術的には困っていない」と目に映る。「そんなことはない!」と思った方,では自身の関わるケースで「技術的な解決法はないか?」と調べたことがどれほどあるだろうか。実際,前述の例では,「進展がなくて困っている」と相談に来たのは,訓練を受けていた方の親族の方で,訓練の担当者ではなかった。進展した後も訓練の担当者をはじめ,周囲の方からの相談も一切来ないのだ。
ここにもやはり,述べてきたような,技術的な手法に対してあまりに消極的な現場の姿が見えてくる。極端な見方をすれば,「訓練師以外の者には一切協力を求めない」ような姿勢にも感じる。これが,「消極的どころか閉鎖的」とまで感じてしまうところで,もしかすると介護福祉の現場にある「QOL 向上」とか,「人手不足解消」などの課題の改善を妨げている一因ではないかという気もする。
「そんなこと言っても,外部協力を求めるには制度的にむずかしい」という声も聞こえてきそうだ。では,そうした外部協力を適度に採り入れられるような「制度」の導入が,今後を含め期待できるだろうか。
民間では,業務を部分的に外部委託することは「アウトソーシング」と呼ばれ,コストダウンや手間節減などのために広く採り入れられつつある。一方,福祉の現場を取り仕切る人や,オヤクショが作る制度に,同様の柔軟な対応が期待できるかと言えば,述べてきたとおり。入所者にデータ通信利用を許さずメールを中継する作業を増やしたり,「たまゆら火災」のように,丸投げした施設で命に関わる状況が起きてしまうのが実状。「誰か通信に詳しい人を呼んで安全性について聞く」とか,「誰か現場を見れる人に施設の安全性を確認してもらう」などということは,全く念頭にない。あるのは,「自分に分からないことは導入しない」ことや,「責任ごと丸投げして終わりにする」ことくらい。これでは「制度が悪いから『何も』できない」と言っているうちは「悪いままである」ということではないかと思う。
◆ 諸問題の元にあるもの
もしかすると「外部の者の協力による技術的手法」というと,技術者が研究室に閉じこもって設計した「専用機器的なもの」のような印象が強いのだろうか。だとしたら,あまりにも限定的に考え過ぎだと思う。たとえば,述べてきた「ドロー描画」のようなパソコン利用や,市販のネットワークカメラを「とりあえず設置」して誰の目も届かない死角を減らすことも,ある意味「技術的手法」と言えると思う。どちらも,そこら辺の家電量販店や通販で手に入れられるもの。現場でこのような技術の利用が一般化しないと,中野さんのような「表現手段を持つ人」を発掘して告知の貼り紙やポスター作りを頼むことはできないし,病室の監視も「直接そこに見回りに行く人」に頼らざるをえないなど,とにかく介護現場で手間が減ることなどないのではないだろうか。
だいたい,前述の「技術者が研究室に閉じこもって設計した機器」がどれほど役立つだろうか。
現場の諸問題を根本的に解決できるのは,現場にいる人だけではないかと思う。だから,現場を見ていない技術者がどんなにいろいろな機器を考えたとしても,どこかに「現場の使用者にしか分からない不都合な点」が残り,「そこさえ何とかなれば現場で活かせるのに,結局は活かせない」要因となる可能性は消せない。今まで,福祉機器展などで見た器具を手に入れ,いまひとつ使いきれず,また別の機器を探す……と,安価とは言えない製品に「買っては試し」を繰り返してきた方も多いのではないかと思うが,背景にはそうした「使う人と作る人の間に距離がある」状況があるためだと考えている。
対照的なのが「とも III」の著者である中野さんの文字伝達であり,また,ご紹介した前述の「ぼむと」であるように思う。なぜなら,どちらも現場(使う当事者)を見て器具などが作られているからだ。
まず,「とも III」の本には,「筆談さえ無理」な中野さんがパソコンの無い時代に,いかにして文字による意思伝達を実現してきたのかが書かれている。読んでいただくと分かるが,中野さん自身に何ができるか,そのためにどんな動作をする機器があればいいのか,その場にいる人が様々な試行錯誤をしていた。
そして「ぼむと」も,私が実際に現場に行き,使用者に会って製作した装置。どちらも「現場で作られた」機器であり,「作る人」が「使う人」を直接見たからこそ,筆談もできない人の文字による意思伝達を可能にし,訓練担当者が長い間進展させられなかった文字入力を,劇的に進展させられたのだと思う。
ここで言う「作る人」を「技術を持つ人」と解釈して,「パソコンを教えられる人」とか,「ネットワークカメラで離れた場所の画像を見れるよう設定できる人」なども含めれば,述べてきた諸問題は,ほぼ一言にまとめることができる。それは「(新しい)技術を活かせる人材が現場に居らず,隔てられてしまっている」ということだ。
では「現場と技術を持つ人との間の距離」を縮めることは可能だろうか。たとえば,技術者が直接介護現場を訪問して直面している諸問題について相談を受け,「それならば市販のこんな機器が使えそう」とか,あるいは「パソコンで簡単なスクリプト(プログラム)を作ればいい」などといった技術的な問題の解消や軽減の方法などについてアドバイスする機会を作る「制度」でもあれば,グッと縮まるかもしれない。
が,そうした制度は「待っていれば」できるものだろうか。むしろ,述べてきたような「無線通信はだめ!」とか,「今までパソコンなんてなくてもやってきたんだ」といった感覚を延長している限り,そうした制度など「できない」と考えたほうがいいような気がしないだろうか。
「スクリプト」で思い出したが,以前,警備を仕事にしている方から「日課が複雑なのを何とかならないか」という相談を受けたことがあった。「日課」とは,「第×○曜日には△△を確認する」とか,「毎週◇曜日には▽▽のパスワードを変更する」とか,十種類前後の取り決めがあり,「今日は何をすべきか」について,その「取り決め」を毎日ひとつひとつ確認して判断しているのを,機械的な判断なのだから機械でできないか,という話。そこで,日課を表示する簡単なスクリプトを作った。その日が「第×○曜日」とか「◇曜日」に当たるかどうか計算し,該当したら「今日は△△の確認の日」とか,「今日は▽▽のパスワード変更の日」など,その日の日課だけを表示するようにした。結果,毎日その十種前後の「取り決め」をいちいち確認する手間が軽減された。
それに使用した JavaScript と呼ばれるスクリプトは,ウェブページ閲覧ソフトである「ブラウザ」で使われるもの。当時はなかったが,今なら「スマホ」などの携帯端末で簡単に見ることができる。
これもまた現場の方からの直接的な相談が負担軽減に結びついた例。「日課」の取り決めなどは施設で働く限り少なからずあるはずだから,こうした工夫はどこかで役立ちそうな気がする。たとえば,そのようにして作られた「今日の日課」を,関係者の持つスマホなどの携帯端末で確認できるようにし,ある日課を遂行した人が「対処済み」通知をすると,それも関係者に配信され,日課のうちどれとどれが済んで,どれがまだ済んでいないのかが分かるような仕組みは,原理的には今あるパソコンと携帯端末で十分実現可能だ。
が,現実は述べて来たとおり。相談制度が「できてない」ため,現場からのこのような相談が技術者に寄せられることなどないのが実状だ。
しかしなぜ,これまで「できてこなかった」のだろうか。穿った見方をすると,指導的立場の人なり組織なりが許さないこともあるのかなという気もする。中野さんの施設でも指導的立場の人が無線通信の安全性をよく調べず「無線は危険! まかりならん!」的な話になっていた。そのためスタッフが「メール中継」なんて余計な手間をかけていたが,似たような感じで「××師協会」あたりの指導的立場の人が現場の実状を見ず,ただ単に他分野の介入を嫌い,「××師の資格のない者に現場であーだこーだ言わせるのは危険だ!」といった考えでいると,外部と連携しようとする制度は闇に葬られ続けそうな気がする。
もちろん,キチンと専門知識を習得し,資格を持った「××師」の方だからこそ安全性が保たれる面もある。ただ,だからといって他の分野の考え方や新しい技術を「排除すべき」理由にはならないはず。専門家以外の人は「意見を聞くことすら危険」という考えはあまりにも極端。重要なのは「連携」であり,どのような危険性があるのかよく議論して進めることで,安全性と省力化の両立を図っていくことだと思う。そのためにも,技術者に現場を見てもらう必要があるはずだ。
当の「××師」の皆さんはどうお感じなのだろうか。自分の仕事には部外の者の手出し口出しは一切ないほうがいいか,あるいは適宜外部の人と連携を考えるか……自分が携わるケースでより進展が図れそうなのはどちらと考えられるだろうか。
介護師不足が叫ばれて久しい一方で,「ニート」と呼ばれる人や働き口がない人たちが多数存在する……などといった,一見矛盾するような状況が生まれている背景には,どんなにパソコンやその他技術によって手間の削減につながる可能性があっても,そうした技術を知る人が介護現場に手出しできない,口出しもしづらい状況が作られてしまっていることに一因があるような気もするのだ。
● 社会に組み込むべき「支援」
◆ 当時の「たまたま」も今は「特別支援」に
述べてきた内容を踏まえ,再度「本来なら言葉や文字による意思伝達は困難」なはずの人が,これだけの本を書いた意味を考えて欲しい。
「たまたまだろう」と言われれば,確かに偶然もある。もし居合わせた親戚が「勉強したいの?」と中野さんに問いかけなかったら,重度の脳性マヒの人に対して「文字による意思伝達手段を教える」ことなど誰も考えなかったかもしれない。でももっと重要なのは,その問いかけに対して「うん,勉強したい!」と中野さんが反応したことを周囲がしっかりと受け止め,行動してきたことのほうだと思う。
というのも,まずもしその反応を周囲が受け流してしまっていたら,「勉強」するための様々な手段を考えたり,与えたりすることもなく,今の中野さんもこの本もなかったはず。受け流さなかったのは,他ならぬ周囲の人たちだ。そして,その「勉強」の手段を考えて,製作して,与えたりしたのもまた,周囲の人たちだ。周囲の方々が文字による自己表現の手段を考えたり,与えたりしたからこそ,今の中野さんが居るのだし,「とも III」の本があると言える。
ではもし「勉強したいの?」と聞いてくれる人と居合わせなかったら……意思伝達の手段は与えられないままになってしまっていた可能性もあっただろうと思う。でも,そう聞いてくれる人が周囲に居たかどうかで,表現手段を与えられるか否かが決まってしまうというのは,何だか「不公平」な感じがしないだろうか。たとえば,小学校の担任の先生が算数の教え方がうまいかどうかで,得意になるか嫌いになるかが決まってしまうような感じ。「教え方」を工夫できず,ただ「なぜ分からないんだ!?」と怒鳴り散らす先生では,「自分には理数系は向かない!」と思い込み,その方面の学習意欲が削がれて,将来の職業選択などにも影響してしまうかもしれない。自分の意志で先生を選べない状況下で,たまたま自分に合う教え方ができる先生ではなかったために,将来の方向性まで決まってしまうというのは,どうだろうか。少なくともそうした状況下での教育は,誰でも平等かつ均等に理解できるものであるべきではないだろうか。
「そんなの理想論だ。だいたい,相手によって理解の仕方も違うし」という声が聞こえてきそうだ。しかし,それ「が」教える仕事ではないだろうか。分からないことを怒鳴って責めたところで理解が深まることはない。限界はあるかもしれないが,相手によってどうすれば理解できるかを見極め,少しでも理解できるよう説明方法の工夫を重ねていくことこそ「先生の仕事」であるはず。
誰でも平等かつ均等に……それは障害があっても同じはず。中野さんのように「勉強したいの?」と聞かれたか否か,それに反応があったかどうかに関わらず,その人に合った「意志伝達手段」を模索する試行錯誤が社会に組み込まれていてもいいのではないかと思う。かつて「養護学校」と呼ばれていた施設は,「特別支援」学校と名前を変えた。その「支援」とはマサにそれではないかと思う。ただ,実態は何も変わっていない。まず,そうした施設には「勉強したいの?」と尋ねる人など居ないだろうし(尋ねなくても「学校」と称するからには「勉強の場」であるはずだと思うが),尋ねたところで反応が無ければ「勉強させても効果ない」と判断されてしまうことも多いのではないか。それ以前に,障害があると,「勉強」とは何なのか,どう反応すればいいのかを当人が理解しているかも疑問だし,反応したとしても,尋ねた側がその反応に気付くかどうかという問題もある。そして何より,勉強したがっていると分かったところで,「その人の障害に合った勉強方法」を考えて,試行錯誤できる「技術を持つ者」が現場に居らず,そもそもそうした人を「受け入れられる制度」ですらないのが現実だ。
裏を返せば,中野さんが本を出すためにそれだけのハードルがあり,周囲の方々の尽力でそれらを乗り越えてきたということに他ならない。中野さんが「勉強したいの?」と聞いてくれる人と居合わせたところまでは偶然だったとしても,重要なのは,勉強の手段を試行錯誤しながら与え続けた「周囲の方々の対応」であり,それこそ「支援」ではないだろうか。「勉強したいの?」と聞く人が居なかったからとか,聞いても反応が無かったから何も与えなかった……では,「支援」にならないと思う。当の「特別支援」学校の皆さんは,どうお感じになるだろうか。
◆ 「活躍できる人」を増やさず「人手不足」に悩む
中野さんが入所している施設には他にも,言葉を発せないとか,自由に動けないハンディキャップを持ちながら,パソコンを使っている方が居て,毎日のように,俳句やグラフィック・アート作品を作っている。まさにその施設に視察に行き,「人格あるのかな」と発言した元都知事は,いったい何を視察したのかと思う。
一方,「やまゆり園」の事件では,元々その施設で働いていたという犯人は,「障害者なんて役に立たない」という主張を繰り返しているという。折しも事件があった昨年(2016)は,「障害者差別解消法」が施行された年。事件が起きたのは施行3ヶ月後のことで,まさに「法的に差別を解消して行こう!」といった矢先の出来事だったのだ。
もしその施設に,多少なりともコンピュータが分かる人がいて,障害に合わせて何とかパソコンを使う手段を考え,中野さんや周囲の入所者のように「表現手段」を身に付け,たとえばその施設のイベントのポスターやカレンダー,ウェブページや刊行物の,イラスト描画や発行などに関わる姿を見ていたら……ひょっとすると「役に立たない」といった意識は生まれず,殺人は起きなかったのかなと思うこともある。
パソコン指導や操作機器の設計や製作をしている私は,ある意味その「表現手段」を与えられる立場に近いかもしれない。ただ,中野さんを指導することになったきっかけは,たまたま同施設で他の方にパソコンを指導していたという「伝」があったから。そうした直接的な「伝」のない方からは「私のところでもパソコンの使い方を教えて欲しい!」といった話など来ないし,パソコン操作を補助する「ぼむと」のような機器を製作して有効性をウェブページで公開したところで,訓練関係者からの問い合わせも全くないのが現実。いくら私が「表現手段を身に付けた障害者を増やしたい」と思っても,これでは増えない。そうした意味では,私もたいして「役に立っていない」。もしも私が「やまゆり園」にいて,パソコン指導にもその他の技術的な問題にも関わることができなかったら,一緒に殺されていたかもしれない。
◆ 「現場の方の柔軟な受け容れ対応」が鍵
では,私が中野さんの施設でパソコン指導をすることになった最初の「伝」は何だったのかというと……居たのである。「外部の者」を取り容れることに積極的だった方が。もう十年以上経つだろうか。たまたま知り合った言語療法師の方からの相談を受け,手が不自由な障害児などのため,ひもを引っ張ってテレビのチャンネルを変えられるようにするスイッチや,ラジカセに接続してテープに録音した音楽を一曲ずつ聞く装置などを製作していたことがあった。
そのうち,中野さんと同じ施設に入所している方で,障害は重いものの思考能力はある程度しっかりしている方にパソコンを指導できないかという相談を持ちかけられたのだった。おそらくその頃,既に中野さんは別の方からパソコンの指導を受けていたと思うが,一昨年(2015),それまで指導していた方が続けられなくなり,同施設に来ていた私に引き継がれたという経緯。だから,私が「とも III」の内容に直接携わった部分はあまりないが,一昨年まで指導していた方の尽力はあるはず。やはり,指導できる方を「外部から受け容れていた」からこそ,できた本であると言える。
これが何を示すのかと言えば,中野さんのような「表現手段」を持った人を増やすには,本人や周囲の方,そして現場の方の「柔軟な受け容れ対応」が鍵になるということだと思う。
そして述べてきたように,指導的立場の人や,オヤクショが作る(かどうか分からない)制度による「指示」を待っていたのでは,問題解消などいつになるか分からないということを考えれば,現状を変えるのは「今!」現場に居る人たちの対応であると言えるのではないだろうか。
いくら介護現場に「人手が足りない」と言っても,そう簡単には人手を増やせないことは,誰もが持つ共通認識だと思う。でも「人手不足」に陥った原因が「従来のやり方」にあるとすれば,やり方を変えないまま問題が解消されることなどないはず。少なくとも,「手間を減らす」ためには「従来のやり方の転換」は避けられないのではないだろうか。
しかし,現場がコンピュータや通信の知識のない人たちばかりでは,「どう変えればいいのか」などは判断のしようがない。一方で,これまでのところ,介護や特別支援学校(旧養護学校)などの福祉の分野で,「コンピュータが扱える人求む」とか,「通信機器に詳しい人歓迎」といった明確な「技術系の求人」は見たことがない。「少しは」その方向を考えてもいい時代ではないかと思う。それを受け入れられるか……やはり現場の「柔軟性」が問われる気がする。
なにも「現場にエキスパートを!」というのではない。コンピュータをはじめとする最近の技術に「少しは」詳しい人が,福祉の現場でもう「少しは」活躍できる状況があってもいいのではないかということ。そうすれば,コンピュータのない時代には実現できなかった自己表現手段も「少しは」覚えてもらえて,それによって何か役割を与えられる人が「少しは」増えて,述べてきたような「人手不足」や,「障害者は役に立たない」といった蔑視の問題も「少しは」解消する方向に向かうのではないかと思うのだ。
そのようにして,「現場の事情を知る」技術系の人材を育成し,少しずつアイデアを出してもらって,現場でそれを採り入れて変えていったほうが進展があるのではないかと思う。そうでなければ,現場で何かが「変わる」としたら……ある日突然,管理者や管轄のヤクショから「今日からこうしないとダメです!」などといった指示が飛んで来る時くらいだろう。どちらが「負担」や「混乱」が少ないか,「いい方向」に変わってくれるのか,ということも考えたほうがいいように思う。
逆に言えば,「コンピュータみたいな技術的なことなどどうせ分からないし,外部の意見など入れられない」と現場で避けられ続ける限り,表現手段を持った人は「少しも」増えないし,問題解消できそうな市販の安価な製品があっても,「設定が分からない」という理由で導入に踏みきれない。新しい技術やノウハウの外部からの採り入れが「少しも」許されない状況の下で,「やまゆり園」や「孤独死」が繰り返されてしまうのだろうか,といった思いも頭をよぎる。
◆ 一生勉強,一生青春
それにしても,中野さんの「新しいことを憶えたい」という欲求には感心する。たとえば,最初のほうに述べた「ドロー」と呼ばれる形式のコンピュータ特有の描画法は,ご家族の方は「無理だろう」と思っていたそう。いざ伝えてみれば,その憶えたばかりの新しい方法で半年間に3~4個もの絵を描いて出版間近の本に載せるという荒技を見せてくれた(あれもこれも載せたいと描いていたから,半年もかかってしまったという見方もできるが)。
今年になって,その場で答え合わせができる「漢字ドリル」や「算数ドリル」のウェブサイトを見付け,中野さんに試してもらっているが,小学校低学年の問題でもかなり苦戦している。述べた通り,中野さんが書く文章そのものは,ひらがなが多い。本にある文章は,それをご家族が読み易くなるよう適宜漢字に直したもの。また,他の人からもらったメールなども,自分で読んで理解できる部分はそう多くはなく,「音読ソフト」に読ませてそれを聞くことが専ら。やはり,幼い頃に障害者向けの「教育システム」のない社会に育った不利益は否めない。
せめてもの救いは,中野さんの「やる気」。パソコンの指導は毎日ではないので,指導のない日に思い付いた要望や気づいた点などを書いておくための,連絡用ファイルが作ってある。そこには,これまでもよく「絵を描きたい」と書かれていたが,前述の「漢字ドリル」を試してからは,「漢字を憶えたい」とも書かれるようになったくらい。一方で,いつぞや「人格あるのか?」発言をした元知事は,今は「ひらがなも忘れた」と言っているそうである。
そしてこの秋,また新たなパソコンの使い道が拓けた。ご家族が設定していったソフトによって,「チャット」と呼ばれるものに似たサービスが利用できるようになった。それは,アプリ内に仮想的な「談話室」のような場があり,文字を入力すると,ネットワークを通じて,その部屋に登録されている人たち全員が読めるというもの。今はそのアプリによって,家族みんなと文字によるリアルタイムな会話が実現している。
どこで見たか忘れたが,カレンダーに書かれているような「ご教訓」的言葉で,「一生勉強,一生青春」というものがあった気がする。「勉強したいこと」つまり「やり遂げたいこと」に向かって挑戦し続けているうちは「青春」と言えるということかなと思う。とすれば,今の中野さんなどは青春真っただ中。今年,古希を迎えた女学生なのである。