PASOHaDA: Parts Assignment and Soldering Only, Handmade Design Assist.
I can design simple electric circuit, then sometimes I have been making some devices having features mass-produced not having, and using those myself or for my family. But most of people cannot do it. Therefore maybe they are forced to be inconvenient life, I think. Why cannot? Because making those devices needs PCB (Printed Circuit Board) designing or wiring on back face, but many people don't have skills of those. And now I wanna suggest new idea "PASOHaDA". It uses readymade partial wired PCB well, therefore you need not making PCB and wiring on back face of it.
「ぱそはだ」とは,「パーツを揃えてハンダ付けするだけ」の意味。
筆者は時々,簡単な電子回路を自作して使うことがある。市販品にない機能のものが数百円ほどで実現できて非常に便利。どんなものかというと,たとえば1回スイッチを押すと2回オンの信号が出るものとか,逆にスイッチを何度押しても最初の1回だけしかオンにならないとか。後者は以前,テレビがデジタル化して電源を入れても画面が直ぐ映らなくなった時に,ある施設でリモコンを何度も押して観たいテレビを消してしまう方への対策として製作を頼まれたりしたことがある。
ただ,筆者にとっては簡単でも,一般の方にはまず無理。なぜなら,そうした工作では,「基板」と呼ばれる部品上に,他の部品を配置して目的の機能を実現するための「配線」が要るのだが,「配線された基板を作る」か,「汎用の基板に自分で配線する」かのどちらかが必要で,しかもどちらも技術的スキルが要る。そのスキルを持たない一般の方にとってはかなり高いハードル。でもそのために,どんなに筆者が「簡単に作って便利に使えちゃう」ような器具でも,それが使えなくてスゴい不便を強いられている方も多いような気がしていた。
ところが! それが過去のものになりつつある。というのも,じつは最近売られている基板には元から部分的に配線パターンを持つものがある。それをうまく活かすと,こんな特徴の設計ができる。
- 基板は安価な既製品をほぼそのまま利用し,基板の製作は不要。
- 表面に部品を配置して,裏はハンダ付けのみで配線もほぼ不要。
- 原則マイコン不使用。プログラム書き込み機器なども一切不要。
つまり「技術的スキルが不要になる」のです! 「パーツを揃えてハンダ付けするだけ!」で完成する,そんな設計が「ぱそはだ」です!
というわけで,当サイトで作り方を紹介する電子工作で,「ぱそはだ設計あり」と記載したものは,「パーツを揃えてハンダ付けするだけ」で作れるもの。たかだか数百円ほどの部品で作れる機能のものが,今まで「自作するスキル」がなかったために使えず,スゴい不便を強いられて来た皆様には,ぜひ製作に挑戦してみてほしいと思います。
今後もなるべくその方向で設計を考え,ご紹介していきたいと思う。
● もう少し詳しい説明
筆者には電子回路を設計するスキルがあり(仕事は来ないが),簡単な装置などを自作して使うことがよくある。もっぱら使うのは「自分か家族」だけだが(「仕事」は来ないからね=2024)。
かつては障害者の施設などからご相談を受けて作っていたりもした。たとえば前文で述べたような「1回スイッチを押すと2回オンの信号が出る」ものは,マウスに接続すると「ダブルクリック専用スイッチ」になる。逆にスイッチを何度押しても最初の1回だけしかオンにならないものは,デジタルテレビの電源ボタンに使えば,テレビが映るまで何度もリモコンを押して消してしまうようなせっかちな方でも確実にオンにできる。他にも,筋力が弱く,押しボタンを押す手を空中で待機しておけず押しっぱなしになってしまう方のために,押しっぱなしはオフになるものを作ったりもした。これは,押しボタンがオフになった時,つまり手にチカラを入れてボタンから手が離れた瞬間のタイミングで出力がオンになるようにした。スキャン式の文字入力がスムーズになった。
そうした装置,たかだか数百円程度の部品で作れる簡単なものでも,たとえばどこかのメーカーに設計してもらうと,数十万円もの開発費や人件費などがかかっちゃったりする。気軽には頼めないし,かといって組み立て方も分からないから,その「部品代数百円ちょい」が使えず,スゴい不便を強いられている方々がけっこういるような気がしていた。
◆ 最大のハードル「基板」
電子回路の装置の製作では,パーツ(電子部品)を揃えたらそれらを配置してハンダ付けする「基板」と呼ばれるものが要る。この部品が,かなり重要。作りたい製品の機能はパーツの配線で決まるわけだけど,その配線は,「基板」に貼り付けられた銅箔(導電性のある薄い銅板)のパターンで決まる。そのため「基板」には,「その機能に特有な配線パターン」を作る必要があり,そのパターンの考案にはそれなりに技能と労力が必要。またそうした特定機能を持つパターンの基板製作には,「エッチング器具,端子穴ドリル」などの専用器具の他,ダウンロードしたパターンで作ろうとする時は「感光基板」と呼ばれる高価な材料が必要になることもあり,手間も費用もかかる。しかもパターンは「特定の機能」用に設計されるから,普通は同じパターンの基板を他の機能に使い回すことはできない。だから,せいぜい1個か数個程度あれば済むもののために基板を製作すると,手間や費用が見合わない。とはいえ,メーカーに頼めばとんでもなく高くつく。同じ機能を持つ製品が「大量に必要」なら,「量産効果」で基板1枚あたりの価格は小さくなるが,そうでもない限り,「パターン付き基板」の設計・製作は,一般の方にとってはそう気軽には手をつけられないシロモノ。
一方,「そんなに要らない」時に使われるのが,何にでも使える「ユニバーサル基板」と呼ばれるもの。これは,部品を挿し込んで配置するための穴が最初からたくさんあいている……つまり,どこにでも部品を配置することができる。裏面には,部品を「ハンダ付け」するため穴を囲む丸い銅箔はあるが,「配線パターン」はなく他とつながっていない基板。そのため「配線」は自分でする必要がある。「回路図」を見て,「どの部品とどの部品のどの端子を接続する必要があるか」を判断し,配置と配線を考える必要がある。たいていその配線は裏面でするから,部品の配置の図を「裏返し」て考えないと正しく配線できないワケで,これがなかなか慣れないとむずかしい。筆者はあきらめて,パソコン上で図を裏返して表示させたものを見て作ったりしていた。
いずれにしても電子工作では「特定の機能用にパターンを考えて基板を作る」か,「回路図を理解して作成者が裏面で配線する」かどちらかが必要で,どちらも技術的スキルが要る。「部品を揃えれば『誰でも』作れる」とはいかず,特に,普段あまり部品のハンダ付けなんかしない皆さんにとっては,かなり高いハードルで「あった」と言えると思う。
◆ 「ブレッドボード」パターン基板の登場
ところが! 時代は変わり行く。最近の「ユニバーサル基板」には,既に部分的に配線された状態の製品を見かけるようになって来たのだ。
少し前から,ハンダ付けをせずに部品を配線できる「ブレッドボード(または『ソルダレスボード』)」と呼ばれる実験用の器具があった。この器具,「ハンダ付けが不要」である以前に「裏面で配線」する必要がない。どういうものかというと,基板より厚い 1cm 弱ほどで,前述の「ユニバーサル基板」と同様に部品を挿す穴がたくさんあって,その板の内部で既にいくつかずつ導通している……つまり,少しだけ配線パターンがあるような構造。導通している穴にいくつか部品を上から挿し込めば,それだけで「(内部で)配線」したのと同じ効果が得られる。そうした製品が売られるようになってきていた。
しばらくすると,そのブレッドボードの導通パターンをそのまま「ユニバーサル基板」にしたような製品が販売されるようになった。部品を差し込む穴がたくさんあいている点は同じ。ブレッドボードは「厚み」があり,いくつかずつの穴が「内部で」導通していたが,ユニバーサル基板のほうは「基板」の名の通り薄い「板」で,裏面にハンダ付け用に貼り付けてある銅箔がブレッドボードと同じパターンで導通している。
すると,まず「ユニバーサル基板」として完成しているので「基板を作る」必要はない。しかも既にある程度「導通している」配線をうまく使えば,簡単な機能なら「裏面の配線」も不要にできることになる。
ただ,その実験用ブレッドボードでは,導通を確実にするため,挿し込まれた部品の導線を穴の中で「掴む」ような機能……いわば「コンセント」の内部に似た機構があるのだが,「基板」にはそれがないため,「ハンダ付け」はする必要がある。でも「配線が不要」ということは,決められた位置に上から部品を配置したら,裏面は「ハンダ付けするだけ」で済む。これまでは,いちいちどの部品のどの端子とどの端子を裏のどこで接続するかの確認や,その接続も,リード線をミリ単位で何度も曲げるなど「器用さ」も必要だったから,それらを不要にできるとなれば,ハードルもかなり低くなるのではないかと考えた。
◆ 「マイコン」の多用に懸念
もうひとつ,最近この手の工作の傾向として懸念している点がある。それは「マイコン」の多用。ここ最近「マイコン」と呼ばれているものは,筆者が子供の頃遊んでいた「Z-80」などと違い(歳がバレるな),ひとつの IC 部品に入出力端子やメモリを持ち,それ自体にプログラムを書き込める部品のこと。「プログラム可能」ということは,書き込むプログラムにより,様々な動作を実現できる……のはいいのだが,当然その「プログラムの書き込み」が必要になる。書き込みのために,他に「パソコン」などが必要で,それにつないで「書き込み」をする作業が必要。もちろん,パソコン用の書き込みソフトと,たいていの製品では「ライター」と呼ばれる書き込み器も必要になり,それもものによってはけっこう高価で「お金」も必要。しかもどれも取扱いには専門知識が必要で,とどめは「プログラミング能力」も必要……と,なにかと必要なものが多過ぎる。プログラム次第でいろいろと実現できるのはいいのだが,「パーツを揃えてハンダ付けするだけ」とはいかないわけだ。
しかも,同じ仕様の「マイコン」が継続的に手に入るのか……というと,かなり微妙。だから,マイコンを使うのはいいとして,それを「誰もが作って使える」のか……という点で,筆者は疑問に感じる。使わずに済むなら,それに越したことはないと思う。
部品以外の特殊なものなど必要ないほうがいいよね。当サイトでは,「パーツを揃えてハンダ付けするだけ」で,誰にでも作れる……そんな「ぱそはだ」な設計を考案し,ご紹介していきたいと思う。
● ぱそはだ「マイコン」版
ただ,予防線を張っておくと,「マイコン」は一部の製作で使うかもしれない。というのも,じつは「マイコン」が使えると,便利な機能のものが格段に増やせるため。たとえば,「パソコンに接続して使う」ようなハイテク機器を「手作り」することが可能になっちゃったりする。そんな意味でも「マイコン」は,利用する価値があるとは思っている。
◆ 「マイコン」のハードルも下がった!
とはいえ,述べたように,これまでは「マイコン」を使おうとすると「プログラム書き込み器」が必要「だった」。ところが! 時代は変わり行く。最近,そうした機器が不要なマイコンが出てきたのだ。
述べたように,この「マイコン」も部品の一つではあるものの,これまでのものは使えるまでに必要なものが多過ぎる。まず「プログラム」が必要,その書き込みのため「ライター」と呼ばれる機器が必要,それも少々高価なためお金も必要,取り扱いも「専門知識」が必要……と,普通の人にとって「ハードル」を爆上げするものでしかなかった。
ところが今,その「ライター」が不要な「マイコン」が販売されてきている。つまり書き込む機器がなくても,パソコン直結でプログラムが書き込みできる。他に必要なものがあるとすれば,パソコンとマイコンをつなぐための USB 接続ケーブルくらい。しかもそれは百均店で買えるレベルにどこででも手に入り,たいていそのケーブルも「部品」として使うし,「パソコンに接続して使う」ものはたいていそのパソコンで書き込みもできるから,実質的に「特殊な機器」は一切不要になる。
残るハードルは「プログラム」だ。プログラミングのスキルのない人は,これまでは「開発業者」に依頼するしかなかったわけだが,もちろんかなりの高額。でも,今は「ネット」がある。ウェブで公開されたものなら誰でもダウンロードできる。少なくとも筆者が「作り方」を公開するものに必要なプログラムは,当サイトで公開しようと思っている。なお,この場合のプログラムの「著作権」については,次章参照。
つまりこの「プログラムのダウンロードと書き込み」は,費用も手間もそんなにかからないので,それらの工程も含めて「パーツを揃える」ことと考えると,製作は実質的に「ハンダ付けだけ」と言えると思う。
述べたように「マイコン」が使えると,パソコンに接続して使うようなハイテクなデジタル機器が,比較的簡単に「手作り」できるようになる。今までできなかったことができる……つまり「できること」がぐっと広がる可能性を秘めている。そんな意味でも,「マイコン」は機会があれば利用したいと思うので,その時はチャレンジよろしく~。
● 著作権
当サイト配信データ(以降「当データ」=設計図,説明書や解説書,プログラムなど,その印刷/複写含む)で特に明記のないものの著作権は,原則作成者(多くは当サイト管理者=石川)が所有します。
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入手者以外が対象の場合,「営利目的ではない」限り「取扱い自由」とします。「営利目的」とは,以下条件のどちらかを満たす場合です。
- 対象になる相手が「実費」を大きく上回る負担を伴うもの。
- 負担の有無に関わらず「不特定多数」を対象にした使用。
入手者以外が対象の場合は,上記のどちらかを満たすと「営利目的」扱いとなり,取扱い自由「ではない」のでご注意ください。「再配布」も「不特定多数」への複写の配布となるため「営利目的」に準じます。
「実費」とは,材料費,その調達や印刷といった準備にかかる経費とそのための最低限の手間を考慮した額のことです。
「不特定多数」とは,「熟知した方(たとえば同居人,介護施設などの入所者,日頃から連絡をし合う親戚,知り合い,サークル活動の仲間など)」に該当しない「多くの方」のことです。「熟知した方」ならば「不特定ではない」ため,多人数であっても「不特定多数」ではなく,また相手が「熟知した方」でなくても,「多数ではない」なら「不特定多数」には当たりません。いずれも「取扱い自由」です。
たとえば,ある施設で当データを題材に「製作会」などを開く場合,施設の外に向けて広く参加を募ると,「不特定多数」を対象にするため参加費の有無に関わらず「営利目的」扱いですが,「その施設に出入りする方限定で参加者を募る」ような場合は,参加者はみんな「熟知した方」なので,人数が多くても「営利目的」とは考えず,「取扱い自由」です。「作り方」を複写して参加者に配布したり,その完成品を施設内で使い回すのも自由です。また,「多数ではない」場合も営利目的とは考えません。たとえば,当データを元に「作ってみた」的なウェブ記事を公開し,それを見た「見ず知らずの方」からの製作依頼に応じる場合も,相手が「数人」なら「取扱い自由」と考えて問題はありません。ただ,いずれも求める負担が実費を大きく上回らない場合に限ります。
なお「配布」や「公表」をした際は,相手の方の取扱いにもご注意ください。述べました「営利目的」に該当しない配布は自由ですが,それを受け取ったり,見聞きした方が,この同意事項を知らないまま「営利目的」に該当する取扱いをしないよう,たとえば「研究成果」に含まれる際などは,注意喚起を書き添えるなどの配慮をお願いいたします。
当データをダウンロードする時に「有価データ交換(『ポイント』や『クーポン』など)」が必要なものは,ダウンロードの都度「有価データ交換」が必要になります。データの紛失,破損,異なるバージョンの使用で読み込む時も必要になりますので,ご了承ください。
● こうした発想に至った理由
じつは筆者は「セミナー」というものに懐疑的。「セミナー」だけでなく,似た意味の言葉として「カンファレンス」や「シンポジウム」,「フォーラム」なども使われるようなので,以下はこれらの文言が付くいろんな催し物に関係する可能性のある話。
◆ 「セミナー」は活かせるか
今これをお読みいただいている方の中には,介護福祉に携わり,現場を少しでも改善したいと考え,あちらこちらの「セミナー」に参加して来た方もいらっしゃるかもしれません。では,果たしてそのセミナーで見聞きして来たことは,「今の現場」にどれほど活かせるでしょうか。
「いや,今直ぐ役立たなくても,将来の参考になれば……」といった考え方もあるかもしれません。では,それは何年先でしょうか。十年,二十年後に,そのセミナーで知ったことが元で何かが改善する可能性がありそうな気がするでしょうか。それ以前に,それまで何の改善もない状態は「我慢すべき」なのでしょうか。そして,そもそも十年,二十年経ち,ある問題に直面した時,「今こそ役立てる時だ!」と,セミナーの内容を思い出せるでしょうか。
将来活かせるかどうか……それは十年や二十年ほど「前に」セミナーで見聞きした内容で,「今こそ役立てる時だ!」と感じたことがどれほどあったかを考えるといいでしょう。どういった内容のセミナーを受講したかさえ忘れていたり,あるいは,セミナーに参加した時とは状況もかなり変わってしまっていたり……それは「過去に見聞きしたセミナーは何の改善にも役立っていない」ということに他なりません。
こう考えて来ると,セミナーの「現場への実質的有効性」には,どうしても懐疑的にならざるをえないというわけです。
◆ 「セミナー」が役立たない理由
なぜそうなるのか。
まず,セミナーで紹介される内容というのは,ほとんど特殊なケースです。国や大学などの研究機関,大企業の肝入りで行なわれた研究で,多大な資金が注ぎ込まれていたり,そうでなくても,背後に「財団」があったり,そこそこ大規模福祉法人グループの傘下で潤沢な資金源があるなど,そうした組織が発表する研究結果やら実験的試みやらの内容を聞き,資金も人員も不足している介護福祉の現場に,果たして活かせるのかという問題。現在だろうと将来だろうと役に立つハズないのです。
しかも場合によっては,「そんなにかかる?」と思いたくなる金額の「参加費」が必要だったりします。それは,ただでさえ資金不足の現場からお金を巻き上げる口実ではないかなんて気もしてしまいます。
さらに懐疑的なのは,民間のウェブサービス利用のセミナー。たとえば,ネット上でビデオ会議サービスを提供する業者を利用したセミナーがあったとして,ではそこに,普段「音読ソフト」でウェブ記事を聞いているような視覚障害者などが参加できるのか……という問題。しかもそうした業者は,利用にあたり「最新機器やバージョンの使用」を求めることも多いです。一方で障害者は,「音読ソフト」をはじめ,パソコンを使うために制限のある自身の動きに合わせて調整した特殊な機器やソフトを利用することも多いですが,それらは必ずしも最新版に対応できるとは限りません。そんな理由で旧バージョンを使い続けざるを得ない障害者の場合,参加に「最新版」が必要な民間ウェブサービスを利用したセミナーは,「当事者」であっても参加できないものになります。
◆ 格差を広げる「セミナー」
一方,ではなぜここで提案する「ぱそはだ」のような「誰にでもできる方法」が広く紹介されることなく,介護福祉の現場の改善に活かそうという機運も生まれないのか……それは「お金にならない」からです。なぜそう言えるか。資金を得ているはずの組織が開催するセミナーに,時として高額な「参加費」の要るものがなぜあるのか……と考えれば,理由はお察し。あえて言えば,「誰にでもできる方法」が広まりそれで済むと知られちゃうと,お金を出してまでセミナーに参加しようとする人が減っちゃう……つまり,お金が集まらなくなる可能性があるわけですよ。かくして「格差」も広がったのではないかという気もします。
どーせ税金はヤクニンと政治家に吸い取られて,介護福祉の現場には下りて来ないのです。では,「福祉のため」に確保された予算はどこへ行くかというと,たとえば国の研究機関や大企業,ある程度の規模のある NPO などが「介護福祉の改善のため,ぜひ私達の研究や活動に!」とか言って,持って行ったりします。でも,お金を持って行ったからには,何か「成果」がなければいけません。そこで「セミナー」ですよ。そこにそれなりに「参加者が集まった」ことを成果として扱えば,お金を出したお役所側も「達成感」があります。つまりお金は「セミナーのネタの資金源」として主催者にバラまかれるような感じ。でもこれでは「介護福祉のため」と確保された予算はセミナーの主催者に吸い取られるだけです。そこから介護福祉の現場に行き渡る仕組みはないのです。
一方で,そのセミナーの内容を見聞きした方が活かせるのかどうか,実際に現場の改善につながったかどうか……その検証は一切しません。省庁あたりの国が出した公金は「役に立っていないといけない」ので,検証したために「実際の現場には役立っていない」とバレるとマズいから検証しないのです。それでも「セミナー」なら,ある程度の参加者が集まれば,それだけの人の「役に立った」気になれるため自画自賛状態なのです。でも重要なのは「そのセミナーの内容が実質的に福祉の現場に活かせたか」のはず。そうでないと「予算」を付けた意味もないわけですが,そこを検証する仕組みがないので,それら「セミナー」がどんなに福祉向上に役立たなくても,問題視されないままになるわけです。
こうした国と研究機関,NPO など「一部の間でお金を回すだけ構造」が固定化してしまっているため,福祉の現場には下りて来ないのです。だから何年も前から「介護職不足」が叫ばれているのに,末端で働く方の報酬を上げたり負担を減らそうという話は出ないのです。それで介護福祉の現場が改善するワケないだろうと思うのですよ。たぶん「少子化対策」も同様な気がします。何年も前から「少子化が悪化したらたいへん」と言われていたのに,そのために注ぎ込まれた予算はどこかで回されて,「異次元の彼方に消滅」しているのでしょう。それを「異次元の少子化対策」と言っているのだろうというのが,筆者の解釈。
端的に言えば,特に国や大学といった公的組織がしている研究には,多かれ少なかれ一般国民から搾り取った税金が資金源にされているわけで,それを湯水のごとく使える環境で行なわれた試みや研究成果などを「セミナー」で見せびらかされたところで,その税金を搾り取られている側の一般国民に同様なことができる余力があるか……って話ですよ。バラまかれた税金を潤沢に使って資金も人員も十分に整えられる組織で行なわれた研究成果をいくらセミナーで見聞きしたところで,そのバラまきのために税金やら社会保険料やら取られて資金も人員も十分に整えられなくなった現場に,果たして役に立つのか,「参加費」を払うほど意味があるものなのか,よく考えたほうがいいように思うのです。
でもヘタすると国や研究者側は,「我々はこんなに様々な研究をしているのだから,きっと現場は改善している」なんて思っていそうです。好き放題出来る「貴族」として君臨し,一般市民がパンさえ手に入れにくくなり困っている時に「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言い放った人もいました。なんだか構図が重なって見えますね。ちなみにこの発言をしたマリーアントワネットは,処刑されたとか。
◆ では「役に立つ」セミナーとは?
もちろん,全てが悪ではなく,「セミナー」の内容にもよりますが。
こんなことを言っている筆者も,じつは毎年参加しているセミナーがあったりします。ただそれは,見聞きする側ではなくて主催する側としての参加で,しかもその内容も,講演者のアシスタントとかではなく,講演会場の隅のほうで行なわれる「製作会」に参加する皆さんのお手伝い。障害者や障害児向けに,音の出る器具やスイッチを押す器具などを実際に製作するコーナーがあって,そこで,ハンダ付けに慣れていない方や,電気の部品についての知識がなくてどう配線していいか分からない方にアドバイスする担当。
筆者が手伝って製作した器具は,持ち帰れば「すぐ使える」わけですが,一方,講演側の内容というと,最近あったのは「会場から数百キロ離れた施設にいる障害者と遠隔的にゲームで対戦する」といった試み。もちろん,「セミナーなんてどれもダメ!」というわけではなく,そのゲームの話も,帰ってから何か直ぐに活かせるなら,見聞きしたことも無駄ではないわけです。ただ,「社会的に」役に立つと言えるかどうかは,「多くの人が」活かせるかどうかなのですが……どうでしょうか。
そのような「斬新な試み」には,もしかするとどこかからお金が出るのかなぁ,などと思ったりするのですよね。そうした,あまり他でやっていないような「斬新な試み」を見せられて,「どうでしたか?」などとインタビューされれば,見た側は「スゴいものを見た! 感心してしまった」などと感想を述べることも多いでしょう。それを「活動報告」として何かに掲載できれば,それの「主催者」とか「スポンサー」として名前を出している組織側は,ある意味「売名効果」や「宣伝効果」になるわけです。「使ったお金の意味」としても主張できますから,今後それに継続してお金をもらうための口実にもし易いと言えるでしょう。
では,必死で見聞きしていた参加者の皆さんは,帰ってからそれをどう活かせるのか。筆者にはちょっと分かりません。これは「お金を得られる」ことを中心にやってばかりいる限り,介護福祉の現場に実質的な改善はない……そんなことを示しているような気がするのです。
◆ 現場に実質的に役立つのは「ワークショップ」
それにしても「セミナー,カンファレンス,シンポジウム……」と,どれも日本語にすれば「講演会」とか「会議」を意味するものなのに,なぜに日本語が使われないのか不思議。国際的な会議,たとえば「IPCC (気候変動に関する政府間パネル)」などで使われるのは半ば当然として(それでも末尾を「会議」と訳しても通じるが),主に日本人向けでも横文字が多用される傾向はどうなのかという感じもする。それとも,横文字を使うことで,ちょいとばかしシャレた印象を与えて,参加者を「インターナショナルで,インテリジェンスなイベントにアクセスさせれば,ゴールへコミットするためのコンセンサスが得易い」とでも言うのか。一度「ルー大柴」さんと話をつけたほうがいいかもしれない。
「セミナー」の類語として,辞書などには「ワークショップ」という言葉の掲載もあり,これはどちらかというと,小規模で実践的なものを指すよう。前述した「製作のお手伝い」はそれに近いのかもしれない。「手作り教室」的に,何かを「その場で実際に作る」催し物なら,その作ったものを直ぐに活かせる可能性もありますよね。
今後重要になるのは,そっちではないかと思うのです。つまり……
介護福祉の現場の改善は,今すぐ実践できることを見つけること!
「お金がないから」とか「やる人が居ないから」とか「やる暇ないから」とか言っているうちは何も変わりませんし,ましてや「セミナー」に参加し「お金,できる人,取り組む時間」全てが揃った試みをどんなに見聞きしても,全て不足している現場に役立つハズないのです。「誰でも今すぐ取りかかれること」を見つけて実行することこそ,「改善」につながるのです。それは,お金がないならお金のかからないことを,人手が足りないなら誰にでもできることを,暇がなければ直ぐできそうなことを,それぞれ探して「今!」実行することに他ならないのです。
◆ 「ぱそはだ」を転換点に
コンサート会場「カーネギー・ホール」で有名なアンドリュー・カーネギーという人の言葉に,こんなのがある。
自分で登ろうとしない人をハシゴの上に押し上げることはできない。
「セミナー」がその「ハシゴ」だとすると,繰り返しそこに参加して来たことは,様々な「ハシゴ」を見せられて来たようなものではないかという気がするが,ではそこに登ろうとする方がどれほどいるだろう。「登る」とは,セミナーの内容を実際にどう活かせるかを考え,そして実践に移そうとしたことがあったかどうか。
もし「登る気」にまで至らなかったのだとすれば,原因ではないかと思う点は2つ。ひとつは「最初から登る気がない」こと。それはハシゴを見せられても「きっと誰かが登ってくれるだろう」と思うだけで,それを押してあげればいいとか,あるいは登った人に上のようすを聞いて満足してしまったりなど,自分からは登らないタイプ。これでは進展のしようがない。ただもうひとつ,見せられて来たものが「登れそうにないハシゴばかり」といった場合もあるように思う。登りたいと思う人もいろいろで,たとえば,握力が弱いとか,足に踏ん張りがきかないような人は,ただハシゴをかけられただけでは,登ろうとする気が起きないケースもありそうな気もする。述べてきたように,セミナーで「資金力のある組織が湯水のように経費を注ぎ込んで行なった実験的試み」を,資金のない末端の福祉現場の人が見せられたところで,「何にどう活かせというのか」状態になってしまうだろう。登れそうにもないハシゴを見せられても,登る気が起きないのは仕方ない気もする。
でも,そうした人も「何とか登れる方法」があれば,登る気になるかもしれない。たとえば,ハシゴに手首や腕を突っ込んで体を支えられる部品が付いていれば,握力が弱くても登れるかもしれない。ワイヤーで体を軽く吊り上げる仕組みが付いていれば,足に踏ん張りがきかなくても登れるかもしれない。老子のこんな言葉もあるわけで……。
授人以魚,不如授人以漁(魚を与えるより漁の方法を教えるべき)。
「補助金」ってどっちだろうかと思うのですよ。「魚が与えられる」ことなのか,それとも「魚を獲る方法」なのか。もちろん,ケースにより微妙な点もあるでしょうけど。ただ,もし「魚が与えられる」ようなケースが多いと,将来に問題を深刻化させるような気もします。というのは,その「補助」によって,不便が「一時的に解消」した状態が得られたとして,それを継続させるには,ずっと補助を受け続ける必要があるわけで,では果たして福祉の現場がそれを許せる状況にあるかという問題。消費税率を上げる口実としてよく「社会保障費の増大」が挙げられますが,「補助金」もある意味その「社会保障費」。そして消費税には「逆進性」が指摘されています。つまり,収入が少ない人ほど負担が重くなる仕組み。すると,何とか自立を目指して細々とひとり暮らししている障害者ほど,消費税率アップで負担が大きく増えることになり,生活の悪化は必至。「魚が与えられる」補助金が多いほど,巡り巡って逆に苦しむ方が増えるような気もするわけです。
「魚が与えられる」ことを望むのではなく,「魚を獲る方法」を福祉に携わる一人ひとりが探して実践する時ではないかという気がします。
できるかできないか,それはその「方法」を知っているかどうかだと思うのです。それも「現場の人たちが実行できる」方法かどうかです。しかし,介護福祉分野で「誰でもすぐに取りかかれる方法」を見つけることはむずかしかったはず。なぜなら,少しでもそうしたことを探そうと「セミナー」に行っても,「セミナー」を開催できるほどの「お金,できる人,取り組む時間」といった資源を豊富に持つ組織が,それらを使ってやって来たことばかり見せられるのですから。末端の現場はその資源がないのですから,役に立つはずないのですよ。「これまで」は!
「ぱそはだ」シリーズは,その「これまで」を変えたいと考えています。「誰でもすぐに取りかかれること」を目指します。皆さんの現場で活かしてもらえれば幸いです。